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1992春の旅(4)カイロ~エル・ミニア [1992春エジプトの旅]

3/12 カイロ→エル・ミニア

 早速午前中はカイロ郊外のギザのピラミッド群の見学をしました。事前に観ていた写真で、ピラミッドは砂漠のど真ん中にあると思いこんでいましたが、実際はカイロの街並みが途絶えてすぐのところに3基並んでいます。朝は風も無く静かだったのですが、見学中は一時砂嵐が吹き荒れ、話したり、笑ったりすると口の中まで砂が入るありさまでした。マスクぐらいでは効き目がなくタオルを口に当てて砂をガード。

 

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 一番大きなピラミッド(クフ王)の入口(↑写真左上)から中に入り見学しました。狭く息苦しい階段を上って、ピラミッドの中間地点?にある部屋へ。このスペースには石棺がひとつ置かれているだけ。墓泥棒が荒らした後なのです。しかし、いろいろな伝説に包まれたピラミッドのミスティリアスな気分には浸れました。

砂嵐も収まり ↓写真の駱駝にも乗ってみました。駱駝が立ち上がったり座ったりするときに前のめりになるので、頭から落下しそうで、怖かったです。

付近にはがりがりに痩せ、ハエのたかった野良犬がいたり、働きたくない(きっと病気)が鞭打たれたりして、悲しげになく駱駝の姿。

 

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↓ 怖がる長女たち 

 

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  そしてピラミットから少し離れた鼻のかけた大きなスフインクスの見学をしていると、小さな子供たち(小学低学年くらい)が寄ってきました。放課後遊んでいるらしかったのですが、少し大きな子がぶらさげている人形にみえたのが近くでよく見ると赤ん坊だったのです。発育不全なのか痩せておむつもしていない赤ちゃんが不憫で涙が出そうになりました。娘は私が絶句しているのをすばやく見つけて、「見ないで!お母さんあっちへ行こう」と引っ張って行ってくれました。旅は楽しい思い出ばかりではありません。。。

↓ ギザのスフィンクス(カフラー王)

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↓サッカラの階段ピラミッド(ジョゼル王)。一番古いピラミッドで、伝説の建築家イムへテプが設計したいわれています。

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この後はパピルス工場で買い物をしたり、階段ピラミッドや周辺の遺跡などを巡り、

メンフィスでは↓ラムセス2世の巨像や小さなスフインクスを見学してバスは一路ミニアへ向かいました。

 

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エル・ミニアの町に到着したのはもう夜も遅く、暗くなっていました。初めに泊まる予定だったホテルが変わったとかで、運転手さんも添乗員さんも現地ガイドさんもそのホテルの場所が分からない様子です。町の広場にバスを止めて3人とも「イブンカシブホテル」(名前は正確でないかも)を探しにいってしまいました。そうすると遠巻きに見ていた町の男たちが近づいてきて、ボールペン欲しいとか言ってバスに乗り込もうとするのです。異様な雰囲気(遠方からの観光客を歓迎しているだけではないなにか)を感じ取って皆がざわざわとしたところに、ようやく3人が戻ってきました。

 

そのホテルはすぐ近くだったのですが、暗い街灯もない道の奥にありました。着いてみるとホテルの前に兵隊さんたちが十人ほど警護中でした。このホテルの経営者がクリスチャンだからと説明されたのですが、当時私たち日本人にはテロの危機がすぐそこに迫っていたことなど露程も知らされていない頃でしたから「はぁ~?」無知とは恐ろしい。。。

部屋は娘と一緒なのでツインだったのですが、バスタブはなく、シャワーのお湯は一人分しか出ません。外はコーランがスピーカーで流され、ドアの外のホールにはエジプト人のおじさんが、朝まで見張り番をしているという、今思えば異様な感じでした。同行の大学卒業旅行の男性二人が町に散歩に出ましたが、すぐに戻ってきて「この町はやばいよ」と・・・外国人に対する敵意を感じたのでしょう。これも帰国後の報道で知ったのですが、エル・ミニアはエジプトでもイスラム原理主義が浸透し、テロ騒動の激しいところだったのです。

しかし、その時は多少の違和感を感じても、なんの恐怖感もなく、朝シャンができないね~とこぼしながら寝てしまう平和ボケの母娘でした。


1992春の旅(5)エル・ミニア~アシュート [1992春エジプトの旅]

3/13  エル・ミニア~アシュート

 ↓出発前にホテルの前で。右に写っているのが警護の兵隊さん。外国人の観光客のために駆り出されたからでしょうか、みんな不機嫌でにこりともしてくれませんでした。

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このイブンカシブホテルの経営者は物静かな白人系の男性で、欧米人のガイドも兼ねていましたが、その後ホテルは続けているのかどうか・・・不明です。

↓エル・ミニアの街角で。ようやく砂漠の埃っぽい空気に慣れてきました。

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 午前中はナイル川をボートで東側に渡り、ベニ・ハッサンの岩窟墳墓群の見学をしました。

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ナイル川の両岸は緑のゾーンがあり、畑などもみえます。でもすぐ向こうは砂漠地帯が広がっています。

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↓ 小さなフェリーを降り、徒歩でベニハッサンヘ。

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↓ 丘の上からナイル川の眺め

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↓岩窟墳墓群の前で

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↓見学の地元の小学生たちは明るく可愛かった。1992-20.jpeg

内部は壁画が残っていたはずですが、暗かったため?写真がありません。

 午後からはフェリーとトラクターに乗って、テル・エル・アマルナの遺跡へ。ここはエジプト美術の中ではとても特色のある興味深いアマルナ美術の生まれた場所です。古代エジプトの歴代のファラオのなかで、異端の王といわれるイクナトンの時代は今までの多神教からアテンを崇める一神教の時代だったのです。壁画や彫像も写実的で、かつユニークです。妃であったネフェルテティのかの有名な胸像(現在はベルリンの博物館)も、この遺跡から発見されたそうです。

フェリーから降りると子供たちがお出迎えと思ったら「バクシーシ」の大攻勢。トラクターで移動する私たちを追いかけて走ってついてきます。最後まで付きまとわれて、さすがにうんざりでした。

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↓テル・エル・アマルナの壁画の前で

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 バスで南下して、夕方アシュートに着きました。

↓途中の車窓風景

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 アシュートでは駅の近くの「バトルホテル」(怖い名前!)に宿泊。夕食の後まだ、明るかったので独りで散歩がてら駅まで行ってみようと歩いていましたら、TAXIが停まり乗りなさい(言葉は分からないけれど多分)と運転手さん。でも、近いし断ったのですが、後ろにはすでにお客さんが乗っていたので?そして、駅への踏切を渡ろうとしたら、卒業旅行の男子たちにばったり。彼らの言うにはここもかなり危ない雰囲気だそう。でも、駅を見たがる私についてきてくれました。構内には時刻表など貼ってありましたが、すべてアラビア語なので個人旅行は難しいな~と駅からでてみますと、大勢の男たちに周りを囲まれそうになって、ヤバイ~。するとこの男子たちが少しもひるまず強い口調で「通せよ~!」とか怒鳴ってくれて、宿に無事帰れました。札幌出身のお二人さんには感謝しつつ、無防備だった自分が今思い出しても恥ずかしいです。

夜中には近くを走る汽車の音や人の声が騒々しく、何度か目覚めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1992春の旅(6)アシュート~ルクソール [1992春エジプトの旅]

3/14

 アシュートから南下してルクソールまで。途中、古代エジプトの遺跡で有名なアビドスデンデラに寄りました。

↓ バスの車窓から。鳩小屋を屋上に持つ民家と動物市場?

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 アシュートからアビドスまで140Kくらい。アビドスは古代エジプトのオシリス神信仰の中心地です。現存する主な遺構はセティ一世(ラムセス二世の父)の神殿、ラムセス二世の神殿など。中でも圧巻なのがセティ一世の神殿内のレリーフです。アモン、オシリス、イシス、ホルス、レー=ハラクティ、プタハ、そして神格化されたセティ一世の7つの神に捧げられました。壁面を埋める神々と王の交流をテーマにする浮彫は一部鮮やかな色彩も残り、優雅で気品あふれるものです。

↓セティ一世の葬祭殿

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↓ 至聖所

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↓ その他の壁レリーフ

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↓ イシス(またはハトホル?)女神のレリーフ(日輪と牛の角を戴く)

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↓ 王命表のレリーフが残されています(1~19王朝)。でも正確ではなさそうで、18王朝のアケナトン王や早死にしたツタンカーメン王の名前はありません。

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 さて、次に向かったのはアビドスから80k南下したデンデラです。ここは古代エジプトが最も繁栄したころの上エジプトの都で、ハトホル女神崇拝の中心地でした。現存するハトホル神殿はプトレマイオス朝/ローマ時代のもの。屋上のオシリス神聖堂の天井のゾディアックはルーブルで見学済みでした。

↓ 北門(ローマ時代)

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↓神殿の壁に残るクレオパトラ(左)の浮彫

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↓ 神殿の大列柱室と天井

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↓ 地下室にはデンデラの電球と呼ばれるレリーフなど。

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↓ 神殿の外壁のレリーフは繊細な彫で美しい。

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↓泥煉瓦の周壁と東門。周辺はコプト教会も含まれた複合遺跡。

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 ふたつの素晴らしい古代エジプトの遺跡に感動でした。またバスに乗りルクソールへ。古代エジプトのテーベと呼ばれた都は今は喧噪の町。ラマダンの時期でしたので、特に夜が賑やかに活気づきます。

 ホテル内のレストランで夕食を済ませた後は、夜のバザールへ。ホテルの前から馬車に乗って、ショッピング中は待っててもらいました。でも・・・乗る前に料金を往復で決めたはずなのに、やはりというべきか?帰って支払う時に片道と言うのでもめました。買い物も半額になるまで交渉するのが普通とのこと…値切るのに慣れてないので疲れました。イシスホテル2泊。

 

 

 

 

 

 

 


1992春の旅(7)ルクソール [1992春エジプトの旅]

3/15

 ↓ナイル川岸に建つデラックスなホテル。朝、部屋のバルコニーからの眺め。対岸は王家の谷のある西岸です。

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 この日は午前中に王家の谷の見学へ。

 フェリーで対岸に渡りました。ホテルのある東岸にはルクソール神殿が見えました。古代エジプトではナイル川を挟んで西側が死者の街(ネクロポリス)、東岸が生者の街と分けられていました。

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↓ かなり崩れていますが、ペアの巨像は「メナムの双像」

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 朝晩は涼しいのですが、さすがにエジプトの南部にくると昼間はかなり暑くなってきました。巨像のところからは徒歩だったのか?記憶にありませんが、この後はハトシェプスト神殿の見学をしました。

ハトシェプストは第18王朝の女王。国王は男という伝統に反して即位し、王の付髷までつけた像も残っています。戦いよりも貿易を振興し、このデイル・エル・バハリにテラス式の壮大な葬祭殿を建てました。女王の没後、女婿のトトメス3世は記念物から女王の名前を削り像を破壊し、歴史から抹殺しようとしましたが、ここから出土した女王の像は優雅な女性らしさがあり、カイロやニューヨークの美術館に収蔵されています。

↓ 神殿の回廊には色彩の保存の良い素晴らしい浮彫が残されています。

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 ここではこの5年後1997年にテロ事件があり、観光客が多数犠牲になりました。1992年の春でもイスラム原理教のテロが蠢き始めていたのです。。。

↓ 王家の谷の入り口付近にて

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 王家の谷には新王国時代の王たちの墓が60以上も発掘されています。そのうちのいくつかを見学しましたが、カメラ禁止なので、写真は残っていません。盗掘に遭わなかったツタンカーメンの墓だけは観たかったのですが、前年から入れなくなっていました。見物客の汗と湿気で、カビが生え傷むからとのことでした。

 午後からはナイルの東岸に戻り、ハト料理の昼食をとり、馬車に乗ってルクソール神殿とカルナック神殿の見学をしました。

ルクソール神殿は18王朝のアメンホテプ3世によって大部分が建設され、ナイル川に平行して南北軸になっています。

↓ルクソール神殿の第一塔門。ピラミッドとラムセス2世の像。

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 ラムセス2世の中庭~第二塔門~大列柱廊などと続きます。写真を撮りましたが、何処の列柱室かわからなくなってしまいました。このころはフィルムのカメラで、ネガも残っていませんので、撮影時の順番が不明なのです。

↓ ラムセス2世の中庭。ラムセス2世と足元の小さい像は妃。

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↓アメンへテプ3世の大列柱廊を望む中庭で。若者4人組。

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↓ カルナック神殿へ通じる参道のスフインクス。

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 カルナック神殿はナイル川に直角に建てられた巨大な複合施設ですが、中心はアメン神に捧げられたアメン大神殿です。なかでも20M級の柱が134本並ぶ大多柱室は圧巻です。ハリウッド映画「インディ・ジョーンズ」のロケに使われ、ますます有名になりました。

↓ 大多柱室。足もとのほうが太いパピルス柱頭の石柱。

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↓ 大多柱室から2本のオベリスクが見えます。右がトトメス1世、左がハトシェプスト女王のオベリスク。

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 夜はルクソール神殿でのライトアップショーがありました。音楽と光のショーと軽く参加したのですが、セリフが長いうえ立ちっぱなしで、疲れ果ててしまいました。この疲労がたたって、翌日の夜から大変な目に遭うことになったのです。

ルクソールではいろいろお買い物をしました。ガラスのエジプト風香水瓶、香辛料、トルコ石(偽物?安かった)の指輪など。

↓プレゼピオ(アラブ人?の聖家族)

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タグ:ルクソール

1992春の旅(8)ルクソール~アスワン [1992春エジプトの旅]

3/16  ルクソールからアスワンまでの途中、エドフとコムオンボに寄り観光しました。

 ルクソールから南へ約110Kのエドフはナイル川の西岸の町。古代の上エジプトの首都でした。ホルス神に捧げられた神殿で知られています。現在のホルス神殿はプトレマイオス朝時代に改築したもので、エジプトの伝統的な神殿建築様式をほぼ完全に保存された貴重な神殿です。ローマの支配時代にキリスト教が公認された後、この異教とされる神殿は閉鎖され、砂漠の砂12Mの下に埋もれていました。壁面の浮彫には宗教儀式図、ホルス神話など学術的な資料としても価値が高いものです。

↓ ホルス神殿入口の塔門

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↓ ホルス神(鷹の姿)の像

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↓ホルス神は国王の守護神でもあり、下の像は祭事に使われたものと思われます。その時の説明はまったく覚えていません。

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 次はエドフから約60Kほどのコム・オンボの観光をしました。ソベク神(鰐の頭を持つ人間像)を崇拝する中心地でした。実際に鰐を飼育し、ミイラもつくられ、祀られました。

↓ ナイル川から子供の鰐をここで捕獲したという遺跡

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↓鰐のミイラ

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 南へ40K走り、ナイル川の東岸の一大観光都市アスワンに到着。ナイル川の急流(カタラクト)の北端に位置。古代エジプト王国の南の国境の町として軍事、政治、商業の中心として栄えたところです。

アスワンの宿はアガサ・クリスティが「ナイル川殺人事件」を執筆したことで、有名になったカタラクト・ホテルです。ただし、ツーリスト専用のような隣接の味気ないビル、ニューカタラクト・ホテルでした。ナイル川の眺望できる部屋は抽選になり、見事に外れ裏の民家ビュー。ツアーのなかに新婚さんが一組いて、そのカップルにナイル川ビューがあたったので、良かったです。

↓ こちらがオールドカタラクト・ホテルです。ロビーやテラスは自由に出入りできました。画像はGoogle Earthから拝借。

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↓ ナイル川の舟遊びはフルーカと呼ばれる帆船で。

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↓ どこからか子供の歌う声が聞こえて、5,6歳くらいの男の子が小さなボート(木の桶のような)に乗って近づいてきました。「可愛い!観光客にサービスね」と思ったら、新型のバクシーシなのでした。ボートは水が染み込んで、下半身を寒そうに震わせています。基本的にバクシーシには応じないように言われていましたが、かわいそう・・・。ツアーの皆さんと歌も歌ってくれたことですしと寄付。「早く家にお帰り~」。

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 エジプトに来てから夕食はほとんどホテル内のブッフェ形式でした。生野菜は衛生上問題があるとのことで、口にはしないように気を付けていたのですが、この夜から下痢が始まり、一睡もできませんでした。

 


1992春の旅(9&10)アスワン&アスワン~カイロ [1992春エジプトの旅]

3/17

 この日は昨夜から続いた下痢のため、まったくベットから起き上がれなくなりました。おまけに発熱という最悪の状態です。ついに今日の観光はパスして部屋で休養することになりました。もともと10代に虫垂炎から腹膜炎をおこし、20代後半には胆のう摘出手術を受けた病弱な身です。疲労と慣れない食べ物にやられてしまったのです。

 実に残念でした。この日はエジプトツアーの中でも欠かせない貴重な遺跡のアブシンベル神殿だったからです。写真は長女が撮ってきてくれました。

↓ アブシンベル神殿。ラメセス2世がレ=ハラクティ、アモン、プタハ諸神と自分自身に捧げた大神殿と妃ネフェルタリのためにハトホル神に献じた小神殿があります。アスワン・ハイ・ダムの建造(1960~71)によって人造湖に水没する危険から、ユネスコが中心になって、安全地に解体、移動、再建されました。

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↓フィラエ島のイシス神殿。

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 部屋の掃除に来たルームサービスの若い女性はヌビア人でした。アスワンから南のスーダンまで(上ヌビアと下ヌビア)居住している民族ですが、古代エジプト時代はエジプトの支配下にあったようです。エジプト関連の本に一番美しい黒人とありましたが、この女性のスタイル良さは抜群で、ついジロジロ見てしまいました。変なおばさんと思われたかも(苦笑)。ヌビアの一部もダムの人造湖に沈んだのですが、ユネスコが中心となり水没地域の遺跡の調査と保存工事が1960~70に実施されました。

 この日は一日何も食べずにいましたが、夜になって添乗員さんがお粥をもってきてくれました。少しずついただいて異常がないので、ようやく安心しました。添乗員さんは若い男性でしたが、気が利く方で有難かったです。

3/18

 熱も下がり、ぐっすり眠れました。朝食も消化の良いものを少しいただいて、アスワンを出発。同好の方に梅干をいただいたのですが、これが美味しくてお腹にもやさしいのが分かり、以後の旅は梅干を必ず持参することになりました。カイロまでは飛行機で戻りました。ホテルはエジプトに着いたときに泊まったラメシス・ヒルトンホテルでした。

 カイロでは早速エジプト博物館へ。

↓ エジプト博物館前で。後ろの池に見える草はパピルスです。

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↓ 一番人気はツタンカーメンの部屋。ミイラの納められた棺や黄金のマスク、副葬品など。

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 2時間くらいでは見きれないほどの収蔵品でした。まだ地下に眠っているものも膨大にあるそうです。途中トイレに入ったのですが、係員の女性か観光客かわかりませんが、いきなり床に小さな絨毯をひいて、お祈りを始めたのにはびっくりしました。

 夕食はホテルの近くにある日本食のレストランですき焼き。白菜の代わりにキャベツが入ってました。レストランの女将さんは小池百合子さん(当時はTVのキャスター)の母上で、百合子さんにそっくりでした。

 夜は部屋のバルコニーからカイロの町とナイル川の夜景を眺め「エジプトよ、さようなら~」

 

 

 


1992春の旅(11&12)カイロ~パリ&パリ [1992春フランスの旅(パリ)]

3/19  カイロ7:00→パリ10:50

 エジプトのホテルを早朝に出発し、空港へ。手荷物検査の時若い4人組だけは中身を検査されました。その時もテロの懸念より、麻薬の疑いと思いました。2か月後に始まった外国人に対するテロを予想だにせず、エジプトを出国したのです。

 パリのシャルル・ド・ゴール空港で私たち母娘はツアーから離れ、パリ市内へ。娘は心細かったらしく、「みんなと一緒に帰りたくなった」と少々不機嫌でしたが、エジプトの前夜に泊まったエコノミーな宿よりは高級なシャンゼリゼ通りの近くのカリフォルニァ・ホテルに入ると、ここに5泊するの~と現金なものでにっこり。丁度ホテルの一部を改装中だったので、割安で泊まれました。この日は私の体調もまだ充分とはいえませんでしたので、午睡をとり休憩。夕方になってから近くを散策がてら中華食堂で焼売などの点心やコーンスープを食べました。美味しかったです。長女もしばらくぶりのほっとする味だったのか、大好きなチャーハンも食べて上機嫌(笑)さて、明日からは母娘の趣味の美術館めぐりが始まります。

3/20

 遅めの起床と朝食(パンもコーヒーもさすがにパリ!)も美味しくいただいて、地下鉄でコンコルド広場へ。まずは広場の傍のオランジェリー美術館へ。当時は2階建ての小さな美術館でした。モネの睡蓮をはじめルノワール、ユトリロ、マリー・ローランサンなど。静かで日本人も多く、「お嬢さんとご一緒でいいですね」と声をかけられたりしました。

↓ モネの睡蓮の部屋で

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オランジェリー美術館(初)

 初めてのパリはエジプト旅行の行き帰りに立ち寄った時でした。ツアーの性格上コンコルド広場でオベリスクを見学したのですが、私はすぐ近くに建っているこの美術館が気になって仕方ありませんでした。それでツアーから離れ、パリに舞い戻って初めにこのオランジュリー美術館を訪問したのです。今までの旅と違ってフリーは初めてでしたから、その時はパリの治安が悪い(今も?)との情報にビクビクしながらも、初メトロに乗りました。気の小さい長女がおっかなびっくりメトロの階段を下りていく姿を今でも思い出します。

 オランジュリー美術館は窓が大きく明るい展示室で、晴れた日でしたから自然光のなかで印象派をはじめユトリロ、マティス、ピカソなどを鑑賞できました。モネの展示室だけは窓がありません。
初めて実物を観た画家のものも多く、なかで私達母娘のお気に入りになったのはアンリ・ルソー
ここには「人形を抱く子供」をはじめいくつかの名画がコレクションされています。
このあとのオルセーや他の美術館でのアンリ・ルソーの作品に触れることの原点になりました。「へたうま」みたいな素朴さに隠された人の世の変わらぬ憧れと夢。。。

↓ アンリ・ルソー「婚礼」1905

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↓ ルノワール「ピアノに寄るロレル・イヴォンヌとクリスティーヌ」1897

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↓ ユトリロ「サン・ピエール教会」1914

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↓日本語のパンフレット

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 オランジェリーからチェルリー公園を抜けてオルセーへ。

↓チェルリー公園から、後ろにオルセーの建物が見えます。近くに見えたのですが、橋まで迂回したので、結構な距離を歩きました。

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☆オルセー美術館(初)

↓ 美術館になるまではオルセー駅はかつてはパリ・オルレアン鉄道のターミナル駅だったそうです。美術館として改築される前の駅(絵葉書)

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 全体の面影は現在も残っていましたが、撮影禁止でした。中央のコンコース(レールの敷かれたところ)は主に彫刻が展示されていました。この地上階のアングルの「泉」を皮切りにドガ、マネ、ミレーなど傑作揃いです。上階はルノアール、モネ、シスレーなどの印象派。ゴッホ、ゴーギャン、アンリ・ルソー、ロートレックなど。最上階だったでしょうかカフェの近くに照明を落とした展示室があり、ドガやロートレック、ルドンのパステル画があります。途中からは長女とは離れて、お互い自由に鑑賞することになり、時間を決めてブックショップで待ち合わせ。遅くなった昼食は館内の豪華な内装のレストランで。味は普通ですが、サービスが悪くて唖然でした。なんか私たち悪いことしました?フランス語が分からないからって、そんなに邪険にしなくても・・・。お隣に座った紳士が見かねて、そのサービスのおばさんに注意してくれました。そしてようやくお皿が運ばれてきたという次第です。

 この初回訪問で、印象に残った作品を絵葉書で紹介します。↓カイユボット「床の鉋かけ」1875

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↓マネ「オランピア」1863

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↓ ドガ「アプサント/カフェにて」1876

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 ヘトヘトに疲れて、タクシーでホテルに帰りました。夕食はあまり空腹でなかったけれど、近所のレストランで。コートを預けるのにもチップが居ることに長女が気が付いて、恥をかかずに済みました。前菜のテリーヌも主菜の牛肉も量が凄い!結局半分も残してしまいました。デザートはパス。さて明日は何処に行きましょうか・・・もちろんルーヴルです~。

 

 

 

 

 

 

 

 


1992春の旅(13)パリ [1992春フランスの旅(パリ)]

3/21  

 この日は一日中ルーヴル美術館で過ごしました。巨大なアートのワンダーランドって呼びたいくらい。美術好きにとっては何度訪れても新しい発見があります。エジプトへの予習でツアーで、寄りましたからこれが2回目です。前回同様、ピラミットの入り口とは違うルートで入館しました。彫刻の並ぶ大廊下の先にサモトラのニケ像の大階段。そこからモナリザの標識に従ってイタリア絵画部門から巡りました。

☆ルーヴル美術館(2)

 当時はヴェロネーゼの超大作「カナの婚礼」のある大きな展示室に「モナリザ」がありました。私は人だかりの「モナリザ」よりもその反対の壁にかかっていたカラヴァッジョの「聖母マリアの死」に興味を惹かれました。この前年にイタリアで何枚かのカラヴァッジョを見ていましたが、この作品で初めてカラヴァッジョを別格な画家と認めたような気がします。聖母の死を嘆くマグダラのマリアが白いうなじを見せている姿。目に焼きつきました。そしてドラクロワの「民衆を導く自由の女神」フェルメールの「レースを編む女性」がこのときの訪問でのベスト3です。

↓ カラヴァッジョの「聖母マリアの死」1605/06頃

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↓ ヴァトー「ピエロ(ジル)」1718-19頃

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↓ラ・トゥール「大工の聖ヨセフ」1640代初め

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上の2点も絵の前からしばらく動けなかった。。。お気に入りの画家たち。

さて、母娘が一番楽しみにしていたフェルメールは何処でしょう?フランドルやネーデルランド絵画の展示室には見当たりません。係員に「フェルメールは何処?」と訊いてもなかなか通じません。写真を見せてようやく「ああ、ヴェルメハね。今日は2時からしか開かないよ」とのこと。ランチを済ませてゆっくり休んでから、またイタリア部門の長い回廊を抜けて戻りました。ルーベンスのある部屋から奥へ、細長い片側が窓の廊下のような部屋にさりげなく2枚のフェルメールがかかっていました。予想していたよりも小さく、何十枚も絵画が並んでいますので、危うく素通りするところでした。 

↓フェルメール「レースを編む女性」1665頃と「 天文学者」1668の前で。

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↓ フラ・アンジェリコ「聖母戴冠」1434-1435の前で

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↓ 絵葉書です。

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↓ ミケランジェロの「瀕死の奴隷」

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 この展示室までは観光客もあまり来ませんが、イタリアからの高校生の修学旅行生と一緒になりました。おませな男子高校生が長女に興味を示すのがおかしかったのですが(高校生に見えたようです)、引率の先生に声をかけられたのも良い思い出です。イタリアが好きで去年初めて行ったことくらいしか話せませんでしたが…。

 夕食はシャンゼリゼの「サントリー」で、しゃぶしゃぶを食べました。味はまあまあでしたが、高い!   

 


1992春の旅(14~17)パリ2日間&帰国 [1992春フランスの旅(パリ)]

3/22

 午前中はオペラ座見学と近辺を散策しました。オペラ座の周辺は日本人向けの食堂(ラーメン、うどんなど)や名前は忘れましたが日本の大手の書店もありました。「ひぐま」という札幌ラーメンの店があり、ここでランチにしましたが味は薄く、塩味だけでなくラーメン特有のコクに欠けていて、少々がっかりでした。その後この近辺は様変わりしたようなので、「ひぐま」は残っていないでしょうね。

↓オペラ座で。このころはオペラにまったく興味のないころでしたので、ガルニエの建物をさらりと観ただけでした。

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 午後からはパリにも慣れてきた長女が独りで歩きたいと言いますので、別行動にしました。私はメトロ移動でロダン美術館へ。

☆ロダン美術館(初)

 「カミーユ・クローデル」の映画を観た後にここへ来ましたから、ロダンはもちろんですがクローデルの作品も探したはずなのですが、記憶にあるのは「老女の像」1点だけでした。何処かへ貸出し中だったのかもしれません。実際何年か後に渋谷で展覧会があり、彼女の作品を多数観ることができました。美しい庭の広い館(ビロン邸)はロダンが晩年住んでいた家です。庭には「地獄の門」や「考える人」などが置かれ、室内はロダンが収集したゴッホの「タンギー爺さん」の絵画なども飾られています。

↓ ロダン「接吻」

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 夜はバトー・ムーシュ(セーヌ河の遊覧船)のディナー・クルーズを愉しみました。

↓記念写真を撮ってくれたのですが、有料でかなり高かった記憶があります。食事は一応はフランス料理ですが、前菜のエスカルゴが不味くて。。。

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 船からの夜景は写真では良く取れてなかったのですが、ノートルダム寺院やオルセーなどセーヌ河沿いの建物がライトアップされて、美しい眺めでした。

3/23

 この日は美術館めぐりにも疲れてきたので、パリのデパートで買い物を楽しみました。ほとんどは家庭用品で、オペラ座の版画、陶器の天使の壁掛け、写真立て、クッションなど。家具も素敵でしたが、観るだけ。。。免税手続きをしてくれたフランス人女性が親切で、日本語も堪能でした。パリの最後の夜はホテル近くのイタリアンで夕食。やはり、量が多過ぎて、勿体ないけれど残してしまいました。

↓ ディナーの前、ホテルの部屋で写しましたが、目をつぶってしまいました。

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3/25

 チェックアウト12時ぎりぎりまで、部屋で荷物の整理をしたりのんびり過ごし、パリCDG15:00発のAFで帰国の途につきました。

3/26

 成田着10:55、バスで羽田に移動し、まだ雪の残る札幌へ帰りました。夫や高校生の次女、隣家の夫の両親もつつがなく、元気でした。家では意見の合わないことも多い母と娘ですが、15泊17日間を喧嘩もせず(説教もせず 笑)楽しい旅ができました。来年の春も行けるといいな~と話してましたら、次女が「私も連れて行って!」とせがむのです。でも4歳違いの娘たちは就職と大学入試という難関にあと1年という時ですからね。さて、どうなるでしょう?

 古い旅のアルバムを整理がてら、記憶をたどりながらようやくアップすることができました。旅行会社からの「旅のしおり」が見つからず、エジプトの旅では年代を入れたり、王朝やファラオの説明なども省略しました。これから行かれる方の参考にはならないと思いますが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。(終)

 

 

 


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