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1994春の旅(8)アムステルダム~デン・ハーグ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/14(土) アムステルダム→ハールレム→デン・ハーグ(列車移動)

 ホテルの朝食はビュッフスタイルで味はまあまあ普通でした。チェックアウトして中央駅へ。これからの列車移動に邪魔なのは重いスーツケースです。旅の計画にあたって愛読書?の「トーマス・クックの時刻表」にあったチッキ(鉄道配送)を利用することにしました。前日中央駅で受付の場所を確かめていたので、まずそこで配送手続をしました。「アントワープの駅まで送ってほしいのです」「今日中には着かないよ」「明日行くのです」「それならOK」ということで話はスムーズ(・・・のはずでしたが)。

 1泊分のボストンバックを抱えて列車でハールレムへ(20分くらい)。ハールレム駅構内にはコインロッカーもありました。身軽になってまず行くところは17世紀オランダ最大の風景画家ライスダールの「ハールレムの眺め」に描かれているSt ・Bavo教会です。バフォーという発音が悪いのか、道を尋ねた方に理解をしてもらうのに苦労でしたが、大きな教会なので途中からその姿を確認。土曜日の市のたつ広場で花屋さんのをのぞいたりして10分ほどで到着。

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 当然ですがあの絵画に描かれた黄金色に輝く小麦畑も風車もこの教会のまわりにはありません。内部はモーツアルトが子供の時立ち寄って弾いたと言う立派なパイプオルガンがあるだけで、教会としては機能していないみたいでした。カフェがあったり、学生さん達が演劇の練習をしていたり・・・不思議な教会です。それに有料。また上の写真でも確認できますが教会の外壁にはいくつかの小さな店舗がくっついていて、床屋さんも営業中でした。

↓Jacob van Ruisdaelライスダール「ハールレムの眺め」(1670頃)62×52

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 この教会からフランス・ハルス美術館までは徒歩10分くらい。趣きのある閑静な小道沿いに、バイオリンなどの工房やアンティークの店など。下の写真のような煉瓦の長屋風建物などが建っています。

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☆フランス・ハルス美術館(初)

 昔は養老院だったという鄙びた建物がオランダ絵画黄金時代の最初期を代表するハルスの美術館になっています。ハルスの作品はほぼ世界中にあり、自然な表情を見せる人物を描き有名です。その大胆な筆使いのテクニックにはかねがね恐れ入ってましたので、ここを素通りすることなど考えられない私でした。

何枚かの集団肖像画は本当に活き活きと楽しそうな晩餐会の場面です。↓ハルス「聖ゲオルギウス市警備隊の士官たちの晩餐」(1616)175×324

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↓ハルス「聖ゲオルギウス市警備隊の士官たちの晩餐」(1627頃)179×257

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 そしてここの前身である養老院の女理事たちの絵は画家の晩年を代表する作品として知られています。↓「養老院の女理事たち」(1664)部分

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ゴッホが弟テオに送った手紙のなかで郷土の先輩画家ハルスの「黒」を称賛しています。ハルスの絵を観る度に私は目を皿のようにして、その「黒」を見つめてしまいます。                

観賞の後は旧修道院の中庭のベンチで休憩し、元来た道を辿って駅へ戻りました。途中で見つけた中華料理の店で、中華そばを食べたのですが、乾麺のうえスープも不味く、ほとんど食べられませんでした。どおりでお客は私独り・・・。

↓ハールレム駅プラットホーム/デン・ハーグへ。

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 車窓に見える眺めは風車を背景に水路のある田園地帯を自転車で走る人々・・・オランダにいる自分が夢のなかにいるように思えました。ぼんやりしていたようで、デン・ハーグ行きの電車に乗ったはずでしたが、降りてみれば同じデン・ハーグでもなんとか駅という名前・・・私は中央駅に行かなければなりません。まだ大事な美術館が残っています。あわててタクシーを捕まえて中央駅へ。ホテルは中央駅に隣接したソフィテル デン・ハーグホテルです。洗濯と休憩の後、広大な公園を右に見て、そぞろ歩いて15分くらいで美術館に到着。

☆マウリッツ・ハイス美術館(初)

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  貴族の館といっても豪壮というよりは典雅でシンプルな2階建ての建物です。しっくりとこの穏やかな街に似合った佇まいです。ここは私が訪問した翌年1995年に大規模なフェルメール展が開催され、一躍日本にも知られ、有名になりました。
1994年に訪れたときはフェルメールの代表作「デルフトの眺望」は額からはずされ、アトリエを模したガラス張りの地下室に画架にかけられ、展示されていました。
写真では静かな雰囲気のする絵画と思っていましたが、実際はほんものだけが持つオーラというか迫力があり、驚きました。オランダの絵画に共通する広い空と厚い雲。建物にあたる光の微妙な美しさは言葉に表現できないほど。実際のデルフトの風景とは違うようですが、この街で終生過ごした画家の想いがこめられています。

↓フェルメール「デルフトの眺望」(1660頃)98×117 初期の代表作。スヒー川から見た市の南端の景色。

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 また同じ部屋には修復されたばかりの「ターバンの少女」が展示されていました。
その修復の説明がテレビ画面で観られるようになっていました。フェルメール独自の光の粒が丹念に描かれているズームアップした画面を本物と比べながら鑑賞できたのは望外の幸せでした。しかもこの展示室も含めて数えるほどの鑑賞者しかいません。今思えばここが最も贅沢なフェルメール体験でした。

↓フェルメール「ターバンの娘」(1665頃)46×40

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 他にもレンブラントやハルスのネーデルランドの黄金期の傑作がずらりと揃っています。
      ↓ハルスの「笑う少年」(1620-25頃)直径29 スナップ写真のような子供らしい自然な笑顔が印象的。ハルスらしい大胆な筆致の小品

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↓レンブラント「トゥルプ博士の解剖学講義」(1632)169×216

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↓Gerard ter Borchテル・ボルフ「手紙を書く婦人」(1655以後)39×30

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 閉館ぎりぎりに鑑賞が終わり、外に出るとはや夕暮なっていました。デン・ハーグはマウリッツ・ハイス美術館だけが目的でしたので、疲れもありどこも観光しないでホテルに戻りました。夕食もルームサービスで食べたと日記にあります。よほど疲れていたのでしょう。


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1994春の旅(9)デン・ハーグ~アントワープ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/15(日) デン・ハーグ→ ロッテルダム→アントワープ(列車移動)

 デン・ハーグのホテルの朝食室は緑の公園が窓外に広がり、気持ちの良い朝を迎えました。美味しい朝ごはんでした。

↓車窓風景

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デン・ハーグから列車にのってロッテルダムまで行ったのですが、あろうことか行き先は中央駅ではなく郊外のナントカ駅行きに乗ってしまいました。あれほど注意していたのに・・・。疲れが出てくるとこういうミスをしがちになります。駅員さんに尋ねると「美術館は分からないけど中央駅まで歩けるよ」と、もう一度引き返そうとする私を押しとどめます。高架のホームから指差す彼方に高層ビルが・・・その側が中央駅とのこと。ここの駅前にはタクシーもいなくて、観念して
それに向かって歩きました。日曜日で人影のまったくないビジネス街を抜けるのは怖かったです。1泊分とはいえボストンバックも重く、ようやく中央駅へ着いた時にはヘトヘト。荷物をロッカーに預け、タクシーで美術館へ。駅も街も今まで巡ってきたオランダの町の雰囲気とは違います。第二次大戦で、ナチスドイツの爆撃で破壊された街は、戦後近代的に復興されました。あまり治安も良くないとの情報もありました。

ボイマンス=ファン・ブニンヘン美術館

 赤レンガの2階建ての建物で、ガラス張りの入り口棟にチケット売り場やショップ、カフェがありました。1階は陶器(チューリップを飾る独特の花器など)の展示、2階に絵画が並んでいます。中世の宗教画から現代アートまで豊富なコレクションを誇っています。

↓ヒューベルトとヤンのエイク兄弟の共作とも模写ともいわれている「キリストの墓を訪れる聖女たち」71×89

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 エイクは15世紀ネーデルランド絵画の創始者。油彩画法を確立したことだけでも凄いことなのに、そのうえ彼の代表作とはいえないこの絵画でさえも、ここまで見事に描ききれるだけの才能の持ち主です。天使や3人のマリア、遠景の空間処理などはやはりエイクです。早逝した兄ヒューベルトの才能と製作も受け継いで、この後の画業は輝かしくも凄まじいものがありますね。初期ネーデルランド絵画にイタリアルネッサンスに比肩する革命をもたらしました。

ピーテル・ブリューゲル「バベルの塔」(1564)60×74   ウィーンの同主題の作品のほぼ半分の大きさ。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の旧コレクション。

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ルーベンスやレンブラント、ボッス、印象派も多数、ダリ、バルテュスなども。現代アートのインスタレーションまで揃えた幅広いコレクション。

↓ダリ「頭が雲でいっぱいのカップル」(1936)92×69男&82×62女   ミレーの晩鐘に描かれた夫婦の上半身の姿勢をしたダリとガラのシェイプト・カンヴァス。

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 館内のカフェで昼食をとっていますと、なんどか展示室で見かけた東洋人の男性が声をかけてきました。香港からカナダに移住してバンクーバーに住んでいるそう。このころは香港返還前で中国に支配されるのを嫌って、カナダなどに移住した香港人が多かった時でした。バンクーバーには従姉の娘が住んでいた時でしたので、片言ながらお話ししました。「ここは美術館は素晴らしいけれど、町はストレンジだから、駅までご一緒しましょう」といってボディガードしてもらいました。駅には警官の姿もあり、ここは安心だねといってアムステルダムに戻る彼とお別れ。間もなくやってきた列車で、アントワープに向かいました。

↓ アントワープの駅(降りたホームで撮ったもの)

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 アントワープの中央駅1階に荷物預かり兼チッキ受付の窓口があり、早速そこに行ってみましたが、まだスーツケースは届いていません。とにかく駅前のホテルにいったんチェックインして、夕方にまた来ることにしました。ホテルは駅近くのアルファ・デ・カイザーに1泊。この町は宝石屋さんが多く、ユダヤ系の商人も泊まるのでしょうか、セキュリティは万全。ルームカードでエレベーターも動く仕組みも、当時では珍しかったです。荷物が届かなければ下着の洗濯は必須です。早く観光したい気持ちを抑え、洗濯をまず済ませてから外出しました。

 ホテルの前の大通りを徒歩で20分くらいでGroen広場。地下鉄もまだ開通していませんのでその出入口も設置されていませんし、MACもなくベルギーの地方都市ローカルな雰囲気がありました。

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 写真に見える赤い観光電車プチトランに乗って、港の方まで往復しました。港の手前に古い倉庫が並んでいました。この辺りは再開発され、後にMASという近代的な美術館も建てられています。(2012再訪)

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↓市庁舎前の広場

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 ノートルダム寺院の前で下車し、見学。娘たちが幼いころ、TVで放映していた「フランダースの犬」で知ったのですが、ネロ少年が憧れるルーベンスの祭壇画のある教会です。あの最後の場面は泣けましたね。さすが、ここには日本人のツアーが入ってました。「こんにちは~」と久しぶりの日本語でした。

☆アントワープのノートルダム大聖堂(初)

 ゴシック様式の教会の内部にルーベンスの祭壇画があるので訪れました。観光客が多かったのですが、威厳ある大教会としての風格があり、説教壇↓もとても立派です。

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↓内部

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↓ 主祭壇に「聖母被昇天」(1626)490×325/ルーベンスの妻イザべラ・ブラントが早逝したのが同年。マリアの下部に描かれた赤い衣の女性に面影が・・・亡き妻を重ね合わせて描いたものでしょうか。

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↓ルーベンス「十字架降下の祭壇画」(1611-14)/中央に「十字架降下」420×310、左に「聖母のエリザベツ訪問」420×150、右に「キリストの神殿訪問」420×150

中央の「十字架降下」に描かれた聖母マリア(青衣)、その蒼白な悲哀の表情に心打たれました。

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 この後は王立美術館を訪れる予定でしたが、すでに夕方で時間切れ。駅にチッキの確認に行きましたがまだ着いていません。どうしましょう~明日はブルージュへ行く予定なのです。夕食はホテルのレストランで。前菜、メインはサーモン、ティー。4☆ホテルだけあってサービスも良く、美味しかったです。

↓アントワープのホテルで。スーツケースが届かなくて浮かぬ顔ですが、セルフ撮り。

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1994春の旅(10)アントワープ~ブルージュ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/16(月) アントワープ→ゲント→アントワープ→ブルージュ(列車移動)

 朝食の後、駅に行ったのですがまだスーツケースは届いてません。幸いアントワープとゲントは約1時間と近いので、再度戻って来ることにしました。ホテルにボストンバックを預け、列車でゲントへ。

↓ゲントのセント・ペーター駅

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 駅前からバスに乗ったものの降りたところが違ったらしく、人に尋ねながら15分ほど歩いて、ようやく教会へたどり着きました。内部は立派ですが、外観は暗い灰色の石造りで地味です。

☆シント・バーフ大聖堂(ゲントまたはヘント)

↓内部、バロック様式の説教壇が立派です。

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さて、ここで観るべきはヤン・ファン・エイクの「ゲントの祭壇画」です。このときはすでに教会の壁から入口入って左の展示室に移されていました。この祭壇画を観に行こうと思ったきっかけは、ロンドンのナショナルギャラリーやベルリンのファンエイクの作品を前年観ていたことで、エイクの虜になっていたのです。そして、講談社から出版された「名画への旅」の北方ルネサンス1に特集で掲載されたこの祭壇画の解説を読んで、ぜひともとエイク詣でしたいと訪れました。ガラス張りの展示室は明るく、祭壇画の収められたガラスケースの周りを何度も巡りながら鑑賞しました。大勢の人でしたが、静かです。その素晴らしさに言葉もない私。他の方もご同様・・・そんな雰囲気でした。

↓エイク「ゲント(ヘント)の祭壇画」(1425頃-32)350×460/15世紀ネーデルランド絵画史上の金字塔といわれる作品。全26パネルよりなる三連祭壇画。主題は内面下段中央による「子羊の礼拝」。緻密な描写は実物を超越した写実性。それが神性を感じさせて驚嘆。

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↓扉を閉じた外面

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 念願の祭壇画を観れました。胸がいっぱいになって外に出ると美しい家が並ぶ広場

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 帰途は駅までのバスを見つけ乗車。再度アントワープへ列車移動し、気がかりだったチッキの窓口へ。何度もやってきては困った顔の日本のおばさんに係りのおじさん(メル・ファーラーに似ていた)も気の毒そう。ちょっと待ててと言って、貨物室?だかに見に行ってくれました。アムステルダムにも電話してくれたのですが、スーツケースは列車に乗せたと言ってるとのこと・・・途中で盗まれたのかしら?ここはいったんあきらめてブルージュに行くしかありません。ホテルに預けたボストンバックを受け取るついでにホテルのレストランでランチ。お昼はビュッフェで、いろいろ少しずついただけて良かったです。

 アントワープ中央駅からブルージュ駅までは1時間半くらいで到着。ホテルのある旧市街とは離れているので、タクシーで向かいました。ホテルは聖血教会のブルグ広場に面したホリディ・イン・クラウン・プラザに2泊しました。ホテルに着いてすぐ洗濯しましたが、スーツケースが紛失したことも考えてて、Tシャツや下着の買い物に出かけました。好みもサイズも合うものがなくて困りました。おまけにアントワープにパジャマを忘れてきたのです(泣)←もう一度アントワープに戻るので、電話しましたが部屋には何もなかったと言われて、憮然。夕食はルームサービスで軽く済ませました。あまり食欲もなく、日本食が恋しい・・・。

↓ブルージュのホテル

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1994春の旅(11-1)ブルージュ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/17(火)

 この日はどこから見ても絵になる美しいブルージュの街を歩きました。まずはホテルの目の前にある聖血教会へ。十字軍遠征の際にエルサレムから持ち帰ったとされるキリストの聖血が奉られています。

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上と下の礼拝堂があり↓12世紀に建築の聖バジリウスを奉ったロマネスク様式の教会があります。まだロマネスクに興味のなかった頃ですが、絵葉書を買っていたところをみると気にいっていたようです。

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 次はボートに乗って運河めぐりを楽しみました。他の乗客はフランス人ばかりで、当然仏語のガイドでした。オランダではあまりフランス語は聞こえませんでしたが、やはりベルギーは違います。

↓運河からの眺めいろいろ。今にも雨が降りそうな曇り空。

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 最後に白鳥が追いかけてきた!「愛の湖」付近でボートを降り、橋を渡って「ベギン会修道院」へ。

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 フランダース地方に広く残るベギン会修道院跡。尼僧とは違い、あくまで自身で生計を立て、自立的な生活を営む女性たちのための共同生活の場でした。貴重な生活様式を後世に伝えるものとされ、ユネスコの世界遺産として13件がまとめて登録されています。

 木々の向こうには修道女たちが住む白壁の家屋が連なります。現在はベネディクト派の修道女たちの祈りと生活の場所になっていますから、内部は公開されていないようでした。

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 ☆グルーニング美術館(初)

 1929年から1930年にかけて、アウグスティノ会修道院跡に建設。趣のあるこじんまりした美術館ですが、そのさりげない外観とは違い油絵の始祖とされるヤン・ファン・エイクの作品群などで国際的な名声を誇る場所です。壮大な西洋美術史を語る時に避けては通れない初期フランドル派はこの美術館の至宝です。

↓第一室にはエイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」(1434-36)122×158  ファン・デル・パーレは寄進者の名前。この老人のこめかみの描写は凄すぎ~!

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↓同じくエイクの「マルガレーテ・ファン・エイク」(1439)33×26  ヤンの妻の肖像。この時代の流行の髪飾り?角が生えてる恐妻にみえて・・・。

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↓ファン・デル・フースの「聖母の死」(1481頃)147×121 フースの最晩年の作品。精神的な破綻をきたし、自殺を図る直前?聖母を囲む人々、手前の放心したような聖ヨハネの表情には画家の心理が伺え、胸が痛くなりました。

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↓ヘラルド・ダヴィッド「シザムネスの皮剥ぎ」(1498)182×159 ブルージュ市庁舎の陪審員室のために描かれたもの。厳しい懲罰を科したペルシア帝国での皮剥ぎの場面を当時のフランドルの風俗に合わせたもの。旅の前に読んだ徐京植の「私の西洋美術巡礼」の表紙にもなっているこの絵画についての記述は心に重く残っていました。正直じーっと鑑賞するに耐えない作品ですが、受刑者の足元でナイフを口にしている男の左でこちらを見ている少年の眼差しに救われた気がしました。

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 他はロヒール・ファン・デル・ウェイデン、メムリンクやヘラルド・ダヴィッドなど、ブルージュに移り住んで活躍した画家たちの作品多数。

続きます~。


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1994春の旅(11-2)ブルージュ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

~続きです。

 ランチはどの辺でとったのか、記憶が抜けていますが日記にはメムリンク美術館への移動途中に、日本語のメニューもある大きなレストランで、スープ、ラムの主菜、アイスクリーム、味は普通とありました。

☆メムリンク美術館(初)

 Hans Memlingメムリンクは15世紀ドイツ出身の画家。ブルージュの市民権を取得し、聖ヨハネ病院や王侯貴族、商人のために制作し、エイク没後のブルージュの代表的画家になりました。ウェイデンやフースの影響を受けましたが、優美で華奢な人物像や画面に漂う甘美な雰囲気は人気が高く、後の19世紀のロマン主義やヴィクトリア朝の画家たちを魅了。帰属作品は100余点あり、世界各地の美術館に収蔵されています。メムリンク美術館は欧州最古のひとつと言われる病院、聖ヨハネ施療院跡に設けられた小美術館です。古めかしい薬局だったという部屋の中央に「ベルギー7大秘宝」の一つとされる聖遺物箱が置かれていました。

↓メムリンク「聖ウルスラ伝の聖遺物箱」(1489以前)34×36×13

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↓メムリンク「玉座の聖母子と聖人たち」(1479)172×172

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 この美術館の親密で温かい雰囲気は忘れられません。ステンドグラスの下に飾られた小品などの鑑賞。椅子も置かれていて、疲れた身には助かりました。メムリンクの清潔な描写にぴったりマッチした空間でした。

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↓上の写真にもあるメムリンクの「女の肖像」(1480)37×22  左上の16世紀に付せられた銘文のために「ペルシャの巫女」とも呼ばれています。

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 そして最後に聖母教会の見学をしました。街を代表するこの教会は高い塔が町のどこからでも眺められるブルージュのランドマーク的存在です。この教会には2つの至宝があり、ひとつはブルゴーニュ公女マリーと父シャルルの霊廟。そして、ミケランジェロの「聖母子」です。そのため大勢の観光客がぞくぞく入っていきます。私の場合、霊廟は関心がないので、他をきょろきょろ。

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皆さんの視線の先にようやく見つけた「聖母子」ですが、手前に立ち入り禁止の柵があり、遠い~。絵葉書で我慢・・・でした。

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 他にもある礼拝室に↓ヴァン・ダイクの「キリストの磔刑」(1626) 右は絵葉書

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↓ ヘラルド・ダヴィッド「キリストの変容の祭壇画」がステンドグラスの下に何気なく置かれていました。美術館の展示とは違って、敬虔な気持ちになります。

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 ブルージュでこれほど数多く、バエラエティに富んだ場所で15~16世紀の北方絵画の作品を観ることができるなんて、夢のようでした。ふらふら、ぼーっとしながら街路を辿ってホテルに戻りました。途中千葉県から来られたという日本人のご夫婦に声をかけられました。日本食が食べたいと言いましたら、このかたたちも同じ考えだったようで、ブルージュに1軒ある和食のお店を探して、行ったのですが、今日は定休日だったとのこと…う~ん残念。

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 それで、夕食はようやく見つけた中華料理店であんかけ焼きそばを食べましたが、不味いぃ~×でした。

↓メムリンク美術館とグロー二ング 美術館のチケット

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1994春の旅(12)ブルージュ~ブリュッセル [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/18(水) ブリュージュ→ブリュッセル(列車移動)

 中世の古都の面影を残した街ブルージュで2泊しましたが、この町を離れるのが名残惜しい気持ち。列車で1時間ほどのブリュッセルに向かいました。ホテルはブリュッセル中央駅から歩いて2、3分のところにあるロイヤル・ウィンザー・ホテルに1泊しました。この旅の中で一番高級な宿でした。チェックインの時、気取って「ボンジュール!」とあいさつしたところ、「フランス語はおできになるのですか?」みたいなこと言われて焦りました(笑)。でもさすが5☆です。外出の時、「アントワープの駅にスーツケースが届いたか電話してほしい」とチッキの引換証をみせたら、夕方帰るまで何度も電話してくれたようで、「届いてましたよ~!」とにっこり笑顔で迎えてくれました。お部屋はクラッシクなインテリアですが、広さはあまりありません。しかし、翌朝部屋に届けられたのは日本の新聞でした。エレベーターで日本の方と一緒になったのですが、スーツ姿の中年の女性で、着た切り雀のくたびれジャケットを着た私、さすがに恥ずかしかったです。

↓ホテルの部屋

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 明日はアントワープまで戻らなくてはいけませんから、今日中に王立美術館に行かなければなりません。まずは古典美術館から入りました。午前中1時間鑑賞の後は昼休み(12時から13時までクローズ)があり、館内のカフェで昼食。午後からまた1時間半ほど回りましたが、さすがに疲れて近代美術館はパスして、ホテルに戻りました。

☆ベルギー王立美術館(初)

 ベルギーの首都ブリュッセルに1803年に開館。メインは古典美術館で15~18世紀までのコレクション。19~20世紀は近代美術館に分かれています。中世では、ファン・デル・ウェイデン、バウツ、メムリンク、ボス、マサイスなど、バロックではルーベンス、ヨルダーンス、ヴァン・ダイクなど中心に展示。ブリューゲルやルーベンスにはそれぞれ一室が当てられています。近代美術館は地下8層にわたって展示。アンソール、デルヴォー、マグリットらのベルギー美術とフランスの新印象派などが中心。
↓古典美術館へのロビー(絵葉書)

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 回った順番はすでに忘却の彼方ですが、カメラOKでしたので、あまり知られていないけれど気になった絵画の写真(絵葉書はないと思ったので)はかなり撮ってきました。

↓ボッス「聖アントニウスの誘惑の祭壇画」模写との説もあります。

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↓Jan Gossartホッサールト(通称マビュース)の「アダムとエヴァ」

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↓ その他のネーデルランドやフランドルの画家たち

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↓メムリンク「聖セバスティアヌスの殉教」(1470)67×68  いかにもメムリンクらしいと笑ってしまいました。恍惚のセバスティアヌの表情が甘く優しげ。(絵葉書)

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↓ピーテル・ブリューゲル(父)「反逆天使の墜落」(1562)117×162

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↓ピーテル・ブリューゲル(父)の「イカロスの墜落のある風景」(1556-58頃)73×112

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上記2点はここの至宝。ブリューゲル好きな方は必見でしょう。

↓クラナハのコーナー

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↓いつも奇妙かつ妖しい作品に驚かされるバルドゥングの「死と女」

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↓ヨルダーンスのコーナー

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さて、帰ろうと奥の階段室へ行きました。ふと何かが呼んでいるような気がして、階段を下りずに横を見ると・・・クリヴェッりがこんな目立たない階段室の隅にあったのです。またまた運命の出会い(笑)

↓カルロ・クリヴェッリ「玉座の聖母子」と「聖フランチェスコ」各180×65

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 なかなか個性的なコレクションの数々を観賞できました。さすがに疲れて近代美術館のほうへは、足が向かず、いったんホテルに戻り休憩。5月の夕方はまだ明るいので、短時間のバスツアーでブリュッセルの観光をしました。

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 グランプラスでバスを降り、食べ物横丁でムール貝のクリーム煮に挑戦したのですが、お鍋ごとに出されたムール貝は多すぎて半分残してしまいました。付け合せはフライドポテトだけ。栄養が偏る食事が続きます・・・。

 1泊の旅支度で結局5泊してしまった旅も、スーツケースがアントワープに届いてお終い。良く考えれば、列車移動が多かったので、軽い荷物で助かった面もありました。


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1994春の旅(13)ブリュッセル~パリ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/19(木)  ブリュッセル→アントワープ→パリ

  昨夜はチッキの確認ができて、朝は気分良く起床。デラックスな朝食をいただいて、荷物をまとめた後、当時は日本でも珍しかったゴディバのチョコレートをグランプラスの直営店まで買いに出かけました。お高くてびっくり!フランス語を話す日本人の若い男性客におすすめを聞いて、チョコのトリュフを初めて食べたのもこの旅でした。懐かしいことだらけ(遠い目)。

 ブリュッセルからいったんアントワープに戻り、チッキの窓口へ。スーツケースと無事ご対面~!よほど嬉しかったと見えて、荷札を保管、アルバムに挟んでありました。

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 まもなく出発するEC特急があったので、パリまでのチケットを購入。ところがアントワープの中央駅にはこのECは停まらず、郊外のなんとか駅で乗り換えなければなりません。アントワープではエスカレーターがあったのですが、この駅にはなく階段でホーム移動だったのです。階段の上で重さ20K  以上のスーツケースを持ちさて降りようとしたその時に、下をお掃除のおじさんが通りかかったのです。そして当然といった感じでさっさとパリ行きのホームに運んでくれました。本当に有難かったです。

 列車は初めてのコンパートメント体験。6席に私独りで悠々、リラックスできました。フランスとベルギーの国境でパスポートチェックがあり、スタンプをもらったり、車内のカフェではベルギー、オランダ、フランスの値段表があったり・・・。もともと汽車が好きなので、この旅での体験でなおさら自由に国境を越えたり、手軽に移動できる列車の旅が面白くなったようです。昼食は車中で簡単に済ませ、パリ北駅に到着。ところがタクシー乗り場が地下になっているので、エレベーターに乗ったのですが、他の方たちと一緒にパーキングフロアに降りてしまったのです。ここでも親切な方たちがいて、タクシー乗り場のフロアまで一緒に戻ってくれて恐縮でした。日本人が独りでうろうろしていると北駅は危険と心配してくれたみたいです。

 パリではサンジェルマン・デ・プレにも近いメトロRue de Bac駅近くのカイレコパテルホテルに4泊しました。パリが最後の滞在地、気も緩んだのでしょう。ベットでうたた寝したあとは、念願の(笑)和食を目当てに、昨年娘たちと行ったサンジェルマン・デ・プレの「河童」へ。お店に入ってビックリ!ブルージュで立ち話をしたご夫婦に再会したのです。テーブルをご一緒させていただいて、今回の旅行やお留守番の日本の家族のことなど、久しぶりに日本語を沢山お喋りしました。普通の焼き魚やお刺身のついた定食でしたが、ご飯とみそ汁がとにかく美味しくて、満足満腹でした◎舌は何にもまして保守的だと改めて感じました。

 さて、明日からは怒涛の美術行脚が始まります~。


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1994春の旅(14)パリ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/20(金)

  三年連続で来てしまったパリですが、まだまだ訪れたい美術館やエリアがあります。正味3日間のパリをハイな気分で歩き回りました。

今日はまずホテルから徒歩数分のルーヴル美術館へ行き、丸一日を体力の極限まで、この美の殿堂で過ごしました。今思えば凄いことです。まだ50代に入ったばかり、若かったのでできたことです。
 疲れたら途中で帰ろうとは思いながら、どうしたことか・・・幼いころ読んだアンデルセン童話の赤い靴を履いた女の子のように足が止まらなくなってしまいました。

☆ルーヴル美術館(3)

 ドノン翼~シェリー翼~新しくなったリシュリー翼の順番で回ったと日記にありますが、どこに何があったかは記憶が薄れています。まずはフランス絵画から思い出すままに・・・。ダヴィッド「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」「レカミエ夫人」「パリスとヘレネ」、アングル「グランド・オダリスク」「トルコ風呂」など。代表して1枚絵葉書から。

↓アングル「アンジェリカを救うルッジェーロ」(1819)147×199

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 別に頼んだわけではないのですが、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を観ていると、隣にいた方が「これが気にいったんだね?」みたいなことを言って撮ってくれました。でもピンボケ(笑)

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↓ジェリコーの大作「メデュース号の筏」(1818-19)491×716 1816年アフリカ西海岸の沖合で起こったフランス海軍のフリゲート艦メデュース号の遭難が題材。筏で漂流する遭難者の姿を描いたもの。ジェリコーは死体や病、狂気などロマン主義らしい異常性の興味に裏打ちされた題材が多いのですが、残酷な場面を当時の民衆に伝える役目をし、今日につながる問題点を示したともいえるでしょう。

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 壮麗で美しいばかりではないフランス絵画のなかでも異色な画家が、ジェリコーのほかにもいました。17世紀フランス古典主義の画家Le Nainル・ナンの3兄弟です。Antoine,Louis,Mathieu長兄のアントワーヌは生地からパリのサンジェルマン・デ・プレで修業の後親方の称号を受け、弟たちルイやマチューと共にまし歴史画家や肖像画家として活躍。そして、風俗画特に農民を描いた作品に新境地を見出しましたが、17世紀後半からはアカデミーによって無視され、19世紀半ばになってから再発見され、今日では17世紀フランスを代表する画家とみなされています。

↓ル・ナン「農民の家族」113×159

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↓こちらは華麗なフォンティーヌブロー派の「ガブリエル・デストレとその妹」(16世紀終わり頃)アンリ4世(あの王妃マルゴの夫)の愛妾だったガブリエルとその妹を描いた謎めいた絵画として知られています。

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 続いてイタリア絵画のティエポロ、ジョット、アンジェリコ マンテーニャなど。素描を除くと約10点しか残っていないピサネッロ。その貴重な1点がルーヴルにあります。

↓Pisanelloピサネッロの「エステ家の公女」(1438頃)43×30  15世紀特有のプロフィール肖像画。背景の蝶や花などが幻想的。

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↓ウッチェロのサン・ロマーノ戦い3部作のうちの一枚は「ミケレット・ダ・コティニョーラの援軍」(1456)180×316

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↓ティツィアーノの「田園の奏楽」(1511頃)110×138  ジョルジョーネが着手し、ティツィアーノが完成。手前の人物たちよりも遠景の美しさに魅かれ、ロンドンにあったジョルジョーネを思い出しました。早逝したジョルジョーネの影響を受け、長生きして(86歳で逝去)素晴らしい作品群を生み出した大画家のある意味出発点だったのかも。。。

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 今回の旅の北方絵画は美術行脚のなかでも大きなテーマでした。その最後を飾る名画といえば?・・・改装なったリシュリー翼の真新しいエスカレーターを登ってご対面~!

↓エイク「宰相ニコラ・ロランの聖母子」(1435頃)66×62  オータン大聖堂旧蔵 ブルゴーニュ公国の宰相だったニコラ・ロランが寄進。この空間構成、細密描写、美しい聖母子、ロランの敬虔な表情、これ以上の作品を描ける画家なんているわけないわ~。脱帽平伏って感じです。

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 ということで、絵画部門だけでも、まだまだきりがないほどのルーヴルですからこの辺で終わります。ランチは館内のカフェテリアでラザーニャ、テリーヌ、ほうれん草のソテーなどチョイス。味はまあまあ普通でした。10時から5時近くまで、時々ベンチに腰かけたり、お茶したりして休みましたが、死ぬかと思うほど疲労困憊してホテルに戻りました。夕食をとる力も残っていませんで、ベットに倒れこんでしまいました。夜中に目覚めましたが、シャワーしてパジャマに着替えるのが精いっぱい。でも、よく頑張りました。明日からは少し楽しましょう~。


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1994春の旅(15)パリ [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/21(土)

 昨夜は夕食抜きでしたから、お腹が空いて目が覚めました。体調もまずまず。午前中はクリュニー美術館へ。メトロのCluny-La Sorbonne駅を上がると古代ローマ時代の廃墟が見え、その背後に建つのが中世美術専門のクリュニー美術館です。

☆クリュニー美術館(初)

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 古代ローマの浴場の遺構(3世紀初頭)を14世紀にブルゴーニュ地方にあるクリュニー修道院の院長が購入し、シャトー(城館)を建設。この建物に19世紀のある蒐集家のコレクションをもとに1884年以降に美術館として公開されました。タピスリー、象牙細工、金工品、彫刻、調度品が並び、なかでもとりわけ「一角獣をともなった貴婦人」のタピスリー(16世紀)は有名です。、6枚の連作タピスリーは館内の奥まった部屋に展示されていました。照明を落とした円形の特別室は中世の雰囲気が漂っていました。パリでデザインされ、15世紀末のフランドルで織られたこのタピスリーは、19世紀にメリメによって発見され、ジョルジュ・サンドが賛美したことで有名になりました。ユニコーンと貴婦人とライオンが織りなす絵模様の6枚のうち、5枚はそれぞれ「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」の寓意を示しています。そして、最後の1枚は「我が唯一の望みに」と題されていますが、解釈は多く、謎を秘めた一枚です。カメラ禁止なので絵葉書で。

↓「嗅覚」の中央部分

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↓16世紀初めのタピスリー「La Promnade」貴婦人たちの優雅なお散歩の場面。背景に織り込まれた草花の美しいこと!

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↓12世紀の「磔刑像」

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 昼食はまたサンジェルマンで焼き鳥屋さんへ。この通りには和食堂、この焼き鳥屋、すし屋と3軒が並んでいました。焼き鳥5本、和風サラダ、ご飯、みそ汁のランチセット、○。

午後からはホテルのロビーにガイドさんが迎えに来てくれて、日本語のツアーでジベルニーのモネの家へ。フランス人のガイドさんは日本滞在経験もあり、奥さんも日本人だそうで、親日家といった感じの良い人でした。この日は雨が降ったかと思うと、陽がさして急に暑くなったり変わりやすい天気でした。1時間ほどのドライブの後、到着したのですが、入り口はウィークエンドなので、行列が・・・。でも私たちのグループは予約済みなので、すぐ入れました。5月のパリ郊外、モネの庭を散歩した時は良い天気になり、お花が咲き乱れとても綺麗でした。モネの家のなかも見学。浮世絵がたくさん飾られて、素敵。室内はカメラ禁止なので、絵葉書です。↓食堂とキッチン

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↓モネの家と庭園(緑の太鼓橋のある)

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↓ 蓮の花咲く池に架かる日本風の小さな橋。数多くの作品がここで生み出されました。

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 パリに戻り、ホテルまで送ってもらい降車。夕食はホテルの裏通りのお惣菜屋さんで調達。テリーヌ、クレープ、パン、ケーキ、木苺で部屋食。夜は9時になっても陽は落ちず、明るい5月のパリ。この日は郊外でリフレッシュもできて、気持ちよく就寝。

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1994春の旅(16&17,18)パリと帰国 [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/22(日)

 午前中はギュスターヴ・モロー美術館、午後からはピカソ美術館を訪れました。

パリにあるモロー美術館はピカソ美術館とならんで、国立の個人美術館として圧倒的な人気を誇っています。
地元の人にはトリニテといえば聖堂なのだそうです。地下鉄トリ二テ駅を降りて地上にでると、威風堂々の大きな聖トリニテ教会が聳えています。この周辺は下町風なエリアですが、美術館のある通りは閑静です。地図をたよりに徒歩数分、フランス国旗が翻ってないと見落としそうななにげない建物はモローが住んでいた家です。

☆モロー美術館(初)

 Gustave Mororeauモローは19世紀末のフランスの画家。神話や宗教的主題による内面的な感情や心理のひだを、蠱惑的な陰影のある鮮やかな色彩で描写。象徴主義の先駆者とみられています。エコール・デ・ボザールの教授となり門下からマティス、ルオー、マルケらを輩出。生涯独身で、没後はパリの邸宅と作品は国家に寄贈され、モロー美術館になっています。

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階段を上がってすぐの2階の画家の居間を見学できました。暖炉のある古風な空間(10畳くらい)には浮世絵やレンブラントの版画などが生前のままに飾られていて、仕切りの奥には書斎がありました。

展示室はその上階の板張りの大きなホール。壁一面に飾られた油絵や水彩画の大作に圧倒されました。ホールにはいかにも画室らしい螺旋階段があり、それを上り下りしながら展示室を見渡す気分は最高でした。水彩画はキャビネットのパネルに所蔵されていて、熱心に一枚づつ鑑賞している方もいましたが、私は一枚の絵の前で足が止まりました。それは

↓「トロイアの門に佇むヘレネ」72×100

 他の細かく描き込まれた作品とは随分異なっていて、未完成にも見えます。ヘレネの顔ははっきり描かれていませんし、スケッチ風な筆の運びも描きなぐったように荒い。しかし、じーっと観ているとファム・ファタルの元祖のようなヘレネ、自分の軽率な恋愛のために起きた戦いのその戦塵の燻るなかに、平然と佇んでいるようにも見えます。荒い筆の運びはそのような魔性の「女」に向けた怒りと、血塗られたおびただしい犠牲をも如実に表現。鳥肌のたつ思いでした。トロイアのヘレンを題材にした作品は他にも何点かあるようです。

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 またサロメはモローの最も代表的なモチーフで、ファム・ファタルの典型。そのうちの一枚はサロメの前にヨハネの首が出現する珍しい図像。↓モロー「出現」142×103

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 続いて訪れたピカソ美術館(3区)はマレ地区(4区)に隣接しています。この近辺は庶民的なユダヤ人街と瀟洒な館が立ち並ぶというバラエティのある地区です。いくつかの館はコニャック・ジェ美術館やカルナヴァレ美術館などに開放されていますので、今やパリの重要な観光地になっています。初めてここを訪れたのは、ピカソ美術館が目的でしたが、そのとき以来、お気に入りのエリアになりました。

☆ピカソ美術館(初)

 ピカソ美術館は旧い館を国が買い上げ、美術館に改修してオープンしたものです。相続税のかわりに物納されたピカソの傑作が、これでもかというほどの規模で展示されています。
青の時代から始まるコレクションは画家の女性遍歴の説明パネルと共に、画歴の推移が手にとるように分かる仕掛けになっています。親切というかゴシップ好きというか・・・まあ、ピカソを理解するにはうってつけといったところです。

絵葉書↓の淋しげな女性はピカソの妻オルガです。「肘掛け椅子のオルガ・ピカソ」(1917)130×88

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 ロシアの将軍の娘でバレリーナだった美しい彼女と知り合い恋に落ちたピカソは、古典的な手法で女性美をを描写。キュビズムから新古典主義の時代に移行した記念の作品。この絵画はオルガと結婚してまもなくのころ。この頃から画商がつき大きな家に住み、社交界との華やかな私生活が始まりました。しかしその穏やかな家庭生活も10年もしないうちに崩れていきます。ピカソが出逢った17歳のマリー・テレーズとの恋愛が始まったのです。
このあたりの新古典主義の「アルルカンに扮するパウロ」「手紙を読むふたり」は穏やかな画風。それに続くシュルレアリスムの「抱擁」「アクロバット」、なかでも「海辺の人物たち」は激しくグロテスクなほど官能的です。恋多き画家ピカソを取り巻く女性たち。そのなかで、 一時期ピカソのミューズだったドラ・マールが彼を取り巻く女性達との軋轢に、次第に精神に異常をきたしていきます。その彼女の哀しみさえも、カンヴァスに描くに至っては「画家の業」としか言えません。「座るドラ・マール」この絵を前にドラ・マールに深く同情してしまった私でした。

↓ ピカソ美術館(サレ館/17世紀の建築)絵葉書

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 ピカソが生前「ピカソ最大のコレクターは自分だろう」と言っていたという作品群を次々に鑑賞しながら、今回の旅の終わりにふさわしい美術館に来られて幸せ、とても満ち足りた気持ちになりました。

 遅くなったランチはピカソ美術館近くのカジュアルなビストロで。まだ一人旅に慣れていませんでしたから、なんかおどおどしてました。が、近くにご近所の常連らしいマダムがきちんとした服装で一人で食事しているのを見て、勇気がわきました。黒板に書かれた本日の定食(牛ヒレ肉、ポテト添え、チョコムース、コーヒー)を美味しくいただき、気分だけはパリのマダム。

 3時ごろホテルに戻り、夕方までスーツケースの整理をして過ごし、夜は先日のジベルニー・ツアーと同じ日本語のムーラン・ルージュのショーに参加。凱旋門近くのレストランで夕食のあとモンパルナスへ。ムーラン・ルージュは超満員。日本人のツアーは私たちだけではなく、かなり日本人率が高かったです。私はロートレックの描いた場所で雰囲気を味わいたかったのですが・・・時代が違いますから(笑)静岡から参加されていたご夫婦と話が弾み、パリ最後の華やかな夜を楽しみました。ホテルに帰りましたが、すでに午前様でした。

5/23(月)パリCDG11:25→ロンドンLHR11:30(ミッドランド航空)/13:00→

 パリのCDG 1のターミナルで大島渚監督夫妻を見かけました。ロンドン在住の息子さんとお孫さんに見送られて、おじいちゃん、おばあちゃんの平凡なお姿で楽しげでした。日本まで同じヴァージン・アトランティックだったみたいです。

5/24(火)成田8:00(ヴァージンアトランティック航空)....羽田10:45→千歳12:00

 札幌の我が家には13:00ごろ帰宅。夫が塩鮭と納豆ご飯を用意して出迎えてくれて、感激でした。共働きの時はお茶も入れないほど、家事には非協力な人でしたが、少しずつ家事も覚えてというか覚えさせて(笑)、社会人一年生の長女となんとか18日間のお留守番をしてくれました。ありがとう~!!

 こうして、初めての一人旅は無事に終わりました。チッキの件がこの旅での最大のトラブルでしたが、何とか切り抜けられたのも大きな自信につながったことは確かです。

地図を眺めながら列車で移動するヨーロッパの旅、画家たちの住んだ町や村での美術行脚の魅力にすっかりはまってしまいました。次回はいつになるでしょうと夢は膨らむばかりでしたが、この年末は東北に住む次姉が重病で一時危篤になり、長姉と交代で看病のため行ったり来たりでした。ようやく恢復し、新しい年1995年を迎えたのですが、今度は隣家に住む夫の父の具合が悪くなり、入院。夫と二人で半日ずつ交代で病院に付き添いましたが、すい臓がんのため1か月半後に亡くなりました。1995年はご存知のように社会的にも大きな災害(神戸大震災)やサリン事件などがあり、日本は騒然としていました。次の旅は義父の初盆を過ぎてからの9月になりました。(終)


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1995秋の旅(1、2)札幌~フランクフルト [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

 前年春は一人旅だったのですが、今回は大年学2年生になった次女がドイツ語夏期講習のため北ドイツのマールブルクにホームスティしていたため、一緒にドイツ語圏を中心に回ることになりました。

旅程はフランクフルト(1)~ウィーン(2)~プラハ(2)~ブダペスト(2)~ウィーン(2)~ミュンヘン(3)の12泊14日でした。

↓MAP

 

旅の手配は旅行代理店グローバルの個人旅行のパンフレットを見て決めました。航空券やホテルも手配してもらい、プラハとブダペストはウィーンからの4泊5日の現地発のバスツアーを予約してもらいました。

 9/1(金)千歳8:00→関空10:05/13:35→フランクフルト18:45(ルフトハンザ航空)

 フランクフルト空港ではホームスティを終えた次女が迎えに来てくれました。マールブルグ滞在はとても楽しかったそうで、元気な笑顔。そして、先にチェックインしたホテルはとても立派だと嬉しそう・・・でしょうね。自分で泊まり歩くのはユースホステル系がほとんどですから(笑)フランクフルトではゾフィテルホテルに1泊しました。夕食はホテル内のレストランで海老とビールで乾杯。ドイツ語が少しでも?話せる連れが一緒だとこうも安心なものなのかと・・・熟睡。

 9/2(土)

 この日は朝から雨でした。夕方のウィーンへのフライトまで、フランクフルトの美術館を訪れました。ホテルからシュテーデル美術研究所までは徒歩15分ほど。駅前の雑多でポルノの店など並ぶ通りを抜けるとマイン川。橋を渡ると左手にシュテーデル美術研究所が見えました。当時はまだ改装前でしたので灰色(雨の日だったので余計に暗い)っぽい地味な外壁の建物で、ここがドイツではベルリン、ミュンヘンの次ぎに充実したコレクションを誇る美術館だとは思えない佇まいでした。

☆シュテーデル美術研究所(初)
 正面の階段を昇って行きますと、この町の誇るゲーテを描いたテッシュバンの「ロ-マ郊外のゲーテ」がまず目につきます。そしてここの宝のファン・エイクの「聖母子」やフェルメールの「地理学者」、カンパン、ボッス、北方の異色の画家バルドゥグ・グリーンのなんとも不思議な聖母子や魔女の絵、クリヴェッリの2枚に分かれた「受胎告知」、ボッティチェリの「若い婦人の肖像」は修復中でした。そして目立たない小部屋にエルスハイマーの「聖十字架の発見と崇拝」の祭壇画がひっそりと飾られていました。この主題のものはこの時が初めてでした。ロンドンのナショナルギャラリーでエルスハイマーの小品「キリストの洗礼」が記憶にあったこともあり、興味深く鑑賞しました。エルスハイマーは銅板に油彩で描いた小品が多いので、あまり目立たないのですが、その繊細な表現は素晴らしいと思います。夜景の描写にも優れているというのも、私好み。

↓エルスハイマー「聖十字架の発見と崇拝の祭壇画」の部分「皇母ヘレナの乗船」(1603-05頃)22.6×15

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↓クラナハ「ヴィーナス」(1532)37×24  小品ながら数多あるヴィーナスの中でも一番美しい。

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↓ボッス「エッケ・ホモ」(1475-80頃)75×61

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↓フェルメール「地理学者」(1669)53×46.6

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↓フレマールの画家(ロベルト・カンパン)「聖母子」(1428)160×68 当初はフレマール修道院に収められていたと伝承されたことから、「フレマールの画家」の作とされてきたのですが、長い間の論争の末、今日では、ロベルト・カンパンの作と確定されたようです。この時求めてきた絵葉書にはまだフレメールのマスターとなっていました。

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↓ルドンもありました。詳細は不明。

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↓上ライン地方の画家「楽園」1410 国際ゴシック様式の珠玉の一枚

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他はルソー、ルノアール、マネ、マッケなどを観賞後、館内のカフェで簡単なランチをとり、同じくマイン川に面した近くのリービークハウス(彫刻館)へ。まだ9月になったばかりですが、雨の日は寒いくらい。リビークハウスで中世やドイツルネッサンスの聖母子像や磔刑像など観た後、

↓「磔刑像(1430年)」南ネーデルランドのリミニのマイスターとして知られている 彫刻家の作。

img149.jpg 

前庭に面したカフェでコーヒータイムで、少し温まりました。また元来た道をホテルへ戻り、荷物をピックアップしてタクシーで空港へ向かいました。

フランクフルト16:45→ ウィーン18:05(ルフトハンザ航空) ウィーンのホテルは西駅まで地下鉄1駅のところ。地下鉄駅から徒歩数分の小じんまりしたホテルに2泊しました。簡素な室内でしたが広い部屋、バスタブつき。スタッフのお兄さんたちも感じ良く、リーズナブルでいいお宿でした。夕食は近所の中華料理屋で。何を食べたかは忘れましたが、味は普通に美味しかったです。ホームステイ先の簡素なドイツ料理に飽きていた娘は和食を食べたかったみたいですが、中華でも充分満足しておりました。


 


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1995秋の旅(3)ウィーン [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/3(日)

 朝は雨、午後近くに晴れてきましたが、9月初めとは思えない気温の低い日でした。この日の午前中は英語の半日ツアーで市内観光。オペラ座前が集合場所で、ウィーンの森を散歩とお茶タイム。そしてシェーンブルク宮殿の観光というルートでした。

↓シェーンブルク宮殿の庭園

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 マリー・テレジアのイエローの外壁が美しい宮殿。内部も見学しましたが記憶が薄れてます。

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 観光バスツアーは終わり市内に戻り解散。オペラ座の近くのレストランで、ウィーン名物のヴィーナーシュニッツェルのランチ。ビールも美味しくいただきました。観光客より地元のお客さんも多いお店で、隣の男性グループが賑やかでした。

↓レストランの前で

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↓モーツアルト像の前で

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 私たち母娘のウィーンでの第一の目的は「ウィーン美術史美術館」です。午後からはここで過ごしました。

☆ウィーン美術史美術館(初)

 1891年に公開美術館として開館。絵画、彫刻、工芸、古代美術など。元来は15世紀に遡るパプスブルク家の蒐集で、特にティロルのフェルディナント大侯とプラハの皇帝ルドルフ二世のコレクションが基礎になっています。前者はチェリーニの塩壺、ラファッエロの「牧場の聖母子」。後者はデューラーとP・ブリューゲル(父)の大コレクションに由来するものです。

ウィ-ン美術史美術館はヨーロッパ、いや世界でも超有名な美術館ですから、広大な内部に膨大なコレクション、もう目がまわりそうでした。初回は主に絵画部門だけを見学。3時間×2日=6時間かかりました。回った順番はすでに記憶にはなく、また初回では超有名な作品がどうしても印象に残ります。ということで、トップはやはり

↓ピーテル・ブリューゲル(父)の「バベルの塔」(1563)114×155 前年訪れたロッテルダムのボイマンスのものに比べると、縦、横ともサイズは2倍くらいあり、画面左下に塔建造を指導したニムロデ王の一団が描かれています。

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エイク以来のネーデルランド絵画史上最後の巨匠といわれるブリューゲル。作品は油彩、テンペラ画は40数枚が現存していますが、ここウィーン美術史美術館のコレクションが一番充実しています。「農民の婚宴」「農民の踊り」「雪中の狩人」など、農民の祝祭風景や日々の営みの描写に惹かれました。

同名の長男ピーテルと次男のヤンも画家として活躍しました。ピーテル(子)のほうは父の模写が多いのですが、ヤンは森の風景、花などを輝く色彩で描き「ビロードのブリューゲル」と呼ばれ、ルーベンスとの共同制作「花輪の聖母子」もあります。

↓ヤン・ブリューゲルの「青い花瓶の花」(1608)66×50.5

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↓アルチンボルド「火/四大元素」(1566)66.5×51  Giuseppe Arcimboldoはミラノ出身のマニエリスムの画家。果物や道具などを組み合わせて人物像を表す奇抜な静物画を描いて有名です。なかでもウィーン美術史美術館のこの一枚は強烈。耳は金羊毛皮勲章、大砲や銃器なども描かれ、反戦的なメッセージもあります。ルドルフ二世により宮廷伯に任じられ活躍。

アルチンボルド1.jpeg

 特に楽しみだったフェルメールの「絵画の寓意」は午後からの西日がまともにあたる展示、ガラスが反射して鑑賞するには最悪の状態でした。ルーベンス、クラナハやデューラーなど。半分ほど巡ったあとは

 ↓館内の素敵なカフェでケーキ(初ザッハートルテ)とコーヒーで休憩。

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 帰る途中アルベルティーナ素描館にも寄ってみましたが、終日は開けていないようで、閉まっていました。

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 どうしても日本食が食べたいという娘とオペラ座近くの和食屋で夕食。和食屋さんではオペラ観劇前の日本人がお蕎麦など食べていましたが、夕食にお蕎麦しか食べられないなんて可哀そう~と思ったりして…全然オペラに関心がなかった頃でしたから(笑)。地下鉄でホテルに戻りましたが、パリのメトロに比べると、治安は格段に良いウィーンでした。明日からは4泊の小旅行に出かけますので、荷造りなどして就寝。


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1995秋の旅(4)ウィーン~プラハ [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/4(月)

 プラハとブダペストにそれぞれ2泊した後は、再び同じホテルに戻りますので、スーツケースを預けてチェックアウト。集合場所はオペラ座の前で8:00に出発しましたが、途中、いくつかのホテルにも立ち寄り何人かのお客さんをピックアップ。9時ごろに市内を抜け、一路チェコ国境まで走りました。枯れたひまわり畑が続く平野はすでに秋の気配が濃厚。

 ガイドさんは40代くらいの男性で、ドイツ語、英語が主ですが、フランス語、イタリア語も話せました。同行のメンバーはインターナショナルで、遠くはブラジル、南ア連邦、USA、イスラエルから比較的近いフランス、イタリアまで二十数名の参加者でした。国境では銃を肩にかけた怖い顔の兵士さんがバスに乗り込んできて、パスポートを預かり、しばらくしてからOkがでてバスは動きだしました。チェコが民主化されてから数年たっていましたが、今では考えられないほどの緊張感がまだありました。パスポートチェックの間、ここの窓口で両替しましたが、その時パスポートを持っていなかったので、T/Cは×。マルクの現金を持っていたので、なんとかチェコの現金をゲット。

 プラハに着いたのは午後2時ころになっていました。ホテル内のカフェでランチを各自でとった後、皆で市内観光へ。日本人のせかせかツアーと違ってのんびりしたものと思っていたら大間違い。歩く歩く・・・旧市街(マラー・ストラナ地区)を3時間かけて巡りました。現地ガイドは中年の女性で、日本大使館の前では壁をポリッシュし過ぎて、せっかくの美しい館が台無しだとか、フランス大使館の前では「ノー・ヌークリア」(当時はフランスの核兵器開発で騒がしかった)とか言って辛辣、パリから来たご夫婦は小さくなっていました。

↓プラハの旧市街で。

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プラハ3.jpeg 

↓ 左はカレル橋と右は天文時計の傍で。 

プラハ2.jpeg  プラハ4.jpeg

 プラハも寒くてダウンのジャケットを着ている人も居るほど。でも私たちはお天気には恵まれていました。1週間前の同じコースのツアーは大雨と風でひどい天候だったとか。最後はカレル橋を渡り、迎えに来たバスに乗ってホテルへ帰りました。夕食はホテル内のレストランで。同じテーブルにイスラエルからみえたお医者さん夫婦。そろって英語もフランス語も堪能で、気配りも素敵なカップルでした。プラハの町もですが同行のメンバーにも興味深々でした。市の中心から少し離れたデプロマットホテル(地下鉄Dejvicka駅近く)に2泊しました。


タグ:プラハ
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1995秋の旅(5) [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/5(火)

 この日からは晴れて、絶好の旅日和になりました。午前中はプラハ城を中心とした観光で、始めにストラホフ修道院内の図書館を見学しました。現地ガイドのおばさんは今日も絶好調。分かりやすい英語で案内してくれました。

☆ストラホフ修道院(主に図書館)

 図書室に入る前の小さな展示室はルドルフ二世の蒐集室。ガラスケースに妙な黒い鳥のミイラがあり、ガイドさんの説明ではあの絶滅した「ドードー」とか・・・。でもそんな貴重なものがこんなところに?半信半疑でした。地球の歩き方にも載ってませんでしたし・・・。

でも検索では↓のような説明があり、あの時目にしたのはやはり本物の剥製で、しかも完全なものは世界で唯一だそうです。黒いのは灰で覆っているため。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BC

さて、ストラホフ修道院はプレモンストレー会という男性の修道会によって1142年に創立。中世時代からプレモンストラー派は知識や勉強に重きをおき、本を書いたり、印刷したり、蒐集したりしました。映画の「薔薇の名前」のシーンを思い起こさせる図書室ホール。古く美しいバロック様式の図書館としてかなり知られています。宝石をちりばめた豪華装丁の写本など展示されていました。

↓カメラ禁止のため絵葉書です。

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 修道院内部や回廊などは見学不可?だったのか、単に忘れてしまったのか・・・。

↓王宮の前で。左に見える白い建物が王宮美術館なのですが、ツアーでは寄らずにこのまま王宮内へ。結局ここに戻ることなくプラハを離れたのが、今でも心残りです。

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↓プラハ城の聖ヴィート大聖堂  右の写真がアール・ヌーヴォーのデザイナー、アルフォンソ・ミュシャのデザインしたステンドグラスです。

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 この日は晴天の観光日和ということで、どこもツーリストでごった返し。せっかくの黄金の小路もカフカの家や錬金術師の家も人がいっぱいで写真も撮れません。おまけにお土産物屋さんになってますし・・・風情無しでした。

↓プラハ城付近からの眺望

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 1968年に起こったチェコの変革運動「プラハの春」、ソ連の軍事介入のTVニュースは衝撃でした。あの舞台になったヴァーツラフ広場で、ガイドさんの熱のこもった説明を聞いた後、ここでツアーは解散しました。現地ガイドのおばさんとお別れの挨拶して、チップを渡したら、「日本人はリッチだから、プラハでたくさんお金使ってね!」ですって(汗)。

娘と地図を見ながら午後からのフリータイムでの過ごし方をいろいろ考えながら歩いていましたら、同じツアーのメンバーで韓国人の女性(一人参加)が話しかけてきました。幼い時に家族とともに北朝鮮(だと思います)から米国に移民したそうです。ワシントンDCの某有名ブランドショップで働いていて、日本人が大勢買い物に来るそうです。ブランド物を1個も持たない私たちとは無縁です。。。私の拙い英語を30年もアメリカに住んでいる母親(同じ韓国人としか付き合わない)より上手と言ってくれたので、ランチ一緒にいかが?と誘って、カレル橋の近くのカジュアルな食堂で昼食。この後はお別れして、娘と二人でヴルタヴァ川右岸の旧市街(スタレー・ムニェスト)とユダヤ人地区を歩きました。

旧市街広場から北の方角にはユダヤ人が居住していた地区があります。1270年頃に建てられたシナゴーグは中央ヨーロッパにおいて最古と言われています。入口で男性は頭に丸い帽子を乗せられますが、それが嫌で入るのをやめた方もました。

↓旧新シナゴーグ  外観の写真がないのでNETから拝借しました。1995年当時はこんなに綺麗ではなかったですが・・・。

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↓内部は写真禁止だったのに気が付かず写してしまった貴重な一枚。内部の壁に1389年に起こった反ユダヤ暴動で殺されたユダヤ人の血痕が残されています。

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 また、同じバスツアーで何人かのイスラエル人が参加者していたのですが、プラハはユダヤ人にとって重要な巡礼地でもあるようです。ユダヤ人の墓地には寄らなかったのですが↓NETから拝借した写真です。

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 天文時計の見えるカフェでお茶して、その安いのにびっくり!日本円で100円くらい。日本までの葉書の切手も24円とかでした。この物価の安いのもプラハの魅力。ツーリストの多さに納得でした。

↓天文時計の見える広場とカレル橋で。

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 モーツアルト縁のエステート劇場やカレル橋ももう一度見に行ったりしているうちに時間切れ。お土産は魔法使いのおばあさんのマリオネット。ボヘミアン・グラスは高価なうえ重いので、あきらめ・・・。地下鉄(20円)でホテルに戻りました。夕食は旧市街のチェコ風ビヤホールで。お団子のスープが美味。チェコ風ビールは苦くて×でした。ビールの種類は多かったので、選択ミスだったのでしょう。この日はプラハの街歩きを楽しんだのですが、翌日は大変なことになってしまいました。


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1995秋の旅(6&7)プラハ~ブダペスト [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/6(水) 

 プラハのホテルを7:30に出発して、ハンガリーの首都ブダペストへ向かいました。ところが途中通過のスロバキアに入ったところで、バスのドライバーさんが体調不良で、運転を続けることができなくなりました。代わりの運転手さんがウィーンから来るまで、ここで待つことになりました。携帯電話がなかなか繋がらなかったり・・・非番だからと断られたり・・・ドタバタして、ようやく代わりの運転手さんが来たのがなんと!数時間後になってしまったのです。このトラブルで一番いらいらしたのは私たち日本人だったかも。運転手さんは青い顔をして横になってはいますが、救急車を呼ぶほどでもないのですが、他の方たちはまず病人の心配、そして少しも怒らず平常心で待ち続けます。これには感心しきりでした。ドライブインのところでストップしたので、食べるものやトイレの心配のなかったのが幸いでしたが、ほとほと疲れました。

ようやく出発したのですが、ハンガリーの入国審査ではブラジル人と日本人のパスポート・チェックに時間がかかり、パスポートが戻ってきません。30分も待ったりしているうちに日が暮れてきました。ブラジルからの中年の女性はここでは憤慨していました。「私たちと日本人のどこが問題だっていうの!」って。彼女たちは教員をしているそうで、教え子の子供たちにお土産をいっぱい買っていました。パスポート・コントロールで一番問題なしだったのはやはりというべきか米国人。自慢してましたね~「これで世界中どこでもOK」 とか言って。

 ブダペストのホテルに着いたのは夜9:30にもなっていました。ホテルのレストランで遅い夕食。プラハからブダペストは地図上では数百キロの距離ですが、通常の倍以上かかっての移動でした。疲労困憊で就寝。メルキュール・コロナホテル2泊。

9/7(木)

 前日の疲れも熟睡したので回復したようです。嫌なことは忘れて、プラハに続いて中欧のハンガリーの首都ブダペスト観光を楽しみました。ブダペストの街を南北に流れるドナウ川が西ブダ側と東のペスト側に分けています。ブダ側は丘陵地帯で、王宮の丘には中世の面影の残りる建物や街並み、そして素晴らしい眺望が広がります。ご存知のようにハンガリーはパプスブルク王朝の支配を200年受け、独立戦争の敗北から国は疲弊。大戦後はソ連の社会主義体制に組み込まれ、屈辱と波乱に満ちた歴史をたどってきました。1989年のソビエト体制変革までにも徐々に自由化を進めて行ったハンガリーの役割は大きかったですし、スムーズに民主的な政治に移行できたのは誇りでしょう。

↓王宮の丘からの眺め。ドナウの向こうに国会議事堂が見えました。

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↓鎖橋の方面

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↓聖マーチャーシュ教会/原形は13世紀ゴシック様式で建てられましたが、16世紀のトルコ占領時にはモスクに改装されていた時もあったそうです。17世紀後半のトルコ撤退後はバロックに様式で修復。また後にはゴシック様式で改築。

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↓漁夫の砦/教会の背後は城壁のテラスになっていて、白い石造りの丸い塔や回廊が並んでいます。

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 ドナウ川を渡ってペスト側の観光は国会議事堂と英雄広場へ。

↓英雄広場で記念撮影。

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ここでは衛兵の交代セレモニーの見学をしましたが、私が気になったのは広場に向かって左に建つブダペスト国立西洋美術館・・・でもここには寄りませんでしたので、このとき現地ガイドさんに英雄広場に来る交通手段をききました。Mラインのステーションがあるからとのこと。てっきり地下鉄と思いこんでしまったのです。

 ランチはハンガリースタイルの素敵な内装のレストランで、郷土料理のメニューもグヤーシュなど美味。雰囲気も良くて、ツアーのメンバーとも打ち解けて楽しいお食事でした。フレンドリーで何かにつけてサンキューを忘れない笑顔のアメリカ人の中年のご夫婦。共働きだそうですが夏休みはヨーロッパ巡りが楽しみだそうです。アメリカ人は長期の休暇はリゾートへ行く人が多いので、ご本人たちも少数派かもと笑ってらっしゃいました。

 さてランチの後はお待ちかねのフリータイム。ブダペストは治安も問題なさそうなので、娘とは別行動で、私は西洋美術館を目指して、近くの地下鉄の駅へ。ところが地図にもあるM○○ラインのしるしを辿っていくと地上に出てしまいます。「あれれ?」困って迷っている私に、何人かが声をかけてくれて親切でした。そのなかで英語のできる女性の方のアウトブスという言葉でようやく分かりました。Mラインはバス路線でステーションはバス停だったのです。ということでようやく目指す美術館に着いたのは閉館の1時間前でした。下の写真は朝、英雄広場から撮ったもので、観光バスがズラリと並んでいます。午後遅くに来たときは衛兵の交代セレモニーもないためか、閑散としていました。

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焦って入館しイタリア絵画の展示室にまっしぐら~。お目当ての絵画は

↓カルロ・クリヴェッリ「玉座の聖母子」(1476)106.5×56 アスコリ・ピチエーノのサン・ドミニコ聖堂旧蔵。「殉教者聖ぺトルス多翼祭壇画」の中央パネル。全部で5枚のパネルはブダペストとロンドンに分散。数ある玉座の聖母子のひとつです。茶色系の落ち着いた色調で、全般にエレガントな雰囲気をたたえ、聖母の眼差しがクリヴェッリの特徴の怜悧で気品ある美しさ。幼子イエスは梨を持つ。台座に署名あり。  

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 参考書の「西洋絵画作品名辞典」にこの作品が、ブダペストにあると知ってから、楽しみにしていました。当時はあまり知られていませんでしたから、このチャンスに観ることができて本当に嬉しかったです。他にも記憶に残った作品をご紹介します。(画像は美術館のHPから)

↓ゴヤ「刀とぎ屋」(1808-12)68×150.5

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↓グレコ「受胎告知」(1600頃)91×66.5

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↓クラナハ「ヨハネの首を持つサロメ」(1530頃)87×58

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 もう閉館まじかなのに、次女が来館。急いで見どころを案内して回りました。係員が近くに現代アートの美術館もあるのでぜひ行ってみてと勧められたのですが、もう明日発つので・・・。バスのドライバーさんの事件があったので、半日ロス。ブダペストはたったの一日しか時間のなかったのは本当に残念でした。日本でこういうことがあったら、返金の対象になると思うのですが、そういう話は一切なくて、なんとなく割り切れませんでした。

夜は大きなハンガリー酒場で民族舞踊や歌などを聴きながら、皆で食事&記念撮影をしました。それぞれの国民性が如実にあらわれていて面白い写真です。うちイスラエルのお医者さん夫婦はこの日患者さんの具合が悪くなったと急遽帰国。フランス人のご夫婦は別のレストランに行ったので写真に写ってません。一番グループになじまなかったのはフランス人夫婦で「お高く留まってる」みたいな感じという人もいて。最後の夜だし・・・(笑)

↓集合写真(私たち以外は全員外国人だからクレームはでないでしょう)。前列左、足を組んでる4人は明るくかっこいいイタリア人たち、右にユダヤ人のちびっこ夫婦、その右端がフレンドリーなアメリカ人夫婦。後列もアメリカ、韓国、日本、イスラエル、ブラジル、南ア連邦からの参加者たち。

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最後はご夫婦の方たちのダンスもあって、それがとてもオリジナリティにあふれた面白さ。可笑しくって娘と涙が出るほど笑いました。これまでは一概に国民性って言えないなと思っていましたが、この時はそれぞれがナショナリティにあふれた存在なのだと強く認識させられた体験になりました。皆いろいろな国で生まれて育って、いろいろな人生を背負って生きてきたけれど・・・ここでは皆明るく楽しい宵を過ごしています・・・なんかいいな~。旅はいいな~。ホッコリとした気持ちで迎えのバスに乗りホテルに戻りました。

 


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