1998秋の旅(9)アルビ~コンク~ル・ピュイ [1998秋フランス中部ロマネスクの旅]
10/22(木)
ル・ピュイ/ホテル・クリスタル1泊
朝8時頃アルビを出発して、北東に200Kほど走り、コンクへ。
↓バスの車窓から
途中廃線になった鉄道のレールも見え、過疎の感じの深い山間の地。中世の巡礼者にとっては非常な難所だったことでしょう。
↓木々の間に見えてきたサント・フォアの遠景
↓昼近くにようやく到着しました。
☆サント・フォワ修道院付属教会(コンク)Ancienne Abbatiale Ste-Foy(Conwues)
教会の歴史は古く9世紀に設立された後、コンクの修道僧がアジャンに赴き、聖女フォワの聖遺物を奪ってきたことで、大きな転機が訪れました。サン・ティアゴ巡礼ルートのル・ピュイの道の中継地として、また聖女の奇蹟によってその名声はますます高く繁栄しました。しかし、その後の宗教戦争や大革命により荒廃が進み、1837年になって、政府の査察官で作家でもあるメリメがコンクに立ち寄り、歴史的建造物として評価されました。政府により保存修復され、現在に至っています。
↓西のファサード/大きなタンパンに「最後の審判」図の浮彫。
この聖堂で超有名なのはファサードを飾る彫刻「最後の審判」。手持ちの「ロマネスク古寺巡礼」(田沼武能写真集)ではモノクロの写真なので、本物を観て薄く色彩が残っていたので・・・それは新鮮な驚きでした。最近はロマネスク関連の書籍は数多く刊行されているので、コンクへ来て驚く人はいないと思いますが。 浮き彫り彫刻は場面毎に簡明ながらドラマティックな様相を見せ、人を惹き付けます。中世の巡礼者が山道を登りようやく辿り着いて、タンパンを仰ぎ見た気持ちはいかばかりだったでしょう。当時は極彩色だった地獄図もおどろおどろしいリアルさで迫ったことでしょう。今は色あせたせいもあって、なんか漫画的なユーモアさえ感じました。聖女サント・フォア(12歳で異教を拒み殉教したという)の遺骨を祭る関係で、聖フォアの少女らしい顔やエピソードも刻まれています。
↓内部/三廊式の内部は身廊だけでなく内陣や袖廊も側廊を持ち、周歩廊を巡るのに都合よくできています。高い空間にトリビューン。
↓北側に少し小高い道があり
↓こちらは絵葉書です。緑の谷間に佇む教会は朝霧のたちこめる写真がベストショットらしいのですが、それは当然叶わず・・・。
谷間の村は数軒の土産物屋やレストランが教会の回りにあり静か。丘を登ったり、帆立貝の表札のある民家なども散策の途中に見つけたり、昼食をはさんで割合のんびりできました。
ランチは教会のすぐ近くのAuberge St Jacouesにて。メニューはアヴェイロン風前菜、鴨のエシャロット風味、チーズ、デザート、コーヒーでした。
ここからル・ピュイまで北東に200Kくらい走りました。この日がツアーの中で一番バス移動の長い日でした。ル・ピュイの街に到着したのはすでに夕方、街の中央に聳えるサーモン・ピンクの聖母子像に違和感を抱きつつホテルにチェックイン。小休憩の後はホテルの食堂で夕食。メニューはル・ピュイ風レンズ豆のサラダ、白身魚バジルクリームソース、チーズの盛り合わせ、赤白ワイン、コーヒー。ここオーベルジュ地方名産のチーズがとても美味しくて、今まで食べず嫌いだった、ブルーチーズも大好きになりました。ワインも進みました(笑)
↓ル・ピュイのホテル
1998秋の旅(10)ル・ピュイ~クレモンフェラン [1998秋フランス中部ロマネスクの旅]
10/23(金)
クレモンフェラン/ホテル・メルキュール
最初の訪問地のオルレアンで時々小雨が降ったほかは、良い天気に恵まれました。現地ガイドさんのお話では1週間前のオーヴェルニュ地方は嵐だったそうです。さて今日はル・ピュイの観光の後はいよいよツアーの最後の訪問地クレモンフェランに参ります。ここまでなんとかひ弱な身体に鞭打って、お腹も壊さず旅を続けてきましたが、朝一番乗りでのサン・ミッシェル・デギーユ礼拝堂の268段の階段にはフラフラ状態になりました。正直下から見上げた奇岩に聳えたつその姿に恐れをなして逡巡。イタリアのシエナの高い塔も登らなかったほどですから。。。でも、友人にも励まされて、皆さんには遅れがちながら登りました。
↓汗だくで、ようやく到着。苦労して辿り着いたせいもあって感激のロマネスク体験になりました。
☆サン・ミッシェル・デギーユ礼拝堂Caprlle St-Michel d'Aiguihe 962年に大聖堂の主司教によって開基。サン・ミッシェルに捧げられた(多分ノルマンディーのモン・サン・ミッシェルの模倣)礼拝堂はサンティアゴ巡礼のル・ピュイの道の重要な起点にあり、多くの巡礼者が参詣しました。
↓礼拝堂扉口/ラントゥには二人のセイレーンが長い髪を持ち、左右対称に向かい合っています。誘惑のシンボルとして二股人魚の姿ではあちこちで見かけますが、ラントゥに堂々と彫られたものは初めてでした。
内部は狭い空間ですが(カメラは禁止)、壁の縁石に座って、堂内の周歩廊に並ぶ柱をうっとり眺めました。色褪せて、天井以外はもはや識別の難しいフレスコ画が後陣に残っています。↓は絵葉書。天井のフレスコ画(11世紀)
↓壁のガラスケースには小さな木彫りのキリストの十字架像が飾られています。この鬚を生やし着衣のキリストの図像は古く、10~12世紀の作と推定されています。(2012再訪のときはここにはなく美術館に移されたようです)
↓鐘塔
そして、階段を下りて大聖堂へ。↓は途中の道沿いにあった小さな聖堂(青いテント、修復中)とル・ピュイの典型的な黒い石積の古い民家。
↓結構傾斜のきつい階段を登ってル・ピュイ大聖堂へ
☆ノートルダム大聖堂Cathédrale Notre Dame 最初の教会は5世紀の初頭ですが、その後12世紀まで何度かの増改築を経て19世紀にも再建され、現在に至っています。巡礼路ル・ピュイの道の出発地として、広くはキリスト教世界のカテドラルとしてのル・ピュイの大聖堂。そのユニークな極めて美しい姿は中世から有名でした。
↓見学当時は平面図だけでは複雑な内部がよくわかりませんでしたので、立面写真をGoogleから拝借しました。
↓正面ファサード、この時の写真が見当たりませんので、Wikiから拝借しました。結構傾斜のある坂道のうえの堂々たる構え。黒い石で建てられたせいもあってほかのロマネスクには見られない威圧感もあります。ただ外壁にはところどころ白や赤の石がアーチラインとして彩られ、
それがとても美しいのです。建築様式にもビザンチンやアラブの影響がみえ、ダイナミックな空間が広がっています。
↓大階段を登って、入り口付近からの街の眺め
↓アラブ文字も刻まれたヒマラヤ杉の扉口
↓ビザンティンの写本挿絵からとられた図像の「キリストの変容」壁画
↓「玉座の聖母子と天使たち」
↓祭壇には「黒い聖母像」。ロカマドールの凄味のあるカルト的な黒い聖母と違って白い衣装の優雅な聖母。カンガルーの赤ちゃんのように顔を出した幼児イエスが可愛い。8/15の聖母被昇天祭にはお神輿での行列があるそうです。
↓聖堂内の宝物室に展示されていた「エッサイの木」の聖職者のケープ(16世紀)
↓回廊中庭から見上げた大聖堂の8角形の交差部の塔(右)と教会背後の独立した高い塔。
回廊の見学時間も少なく、添乗員さんについて歩くのが精いっぱいで、写真もありません。徒歩で「酔いどれ船Le Bateau Ivre」というランボーの詩集の名のついた小さなレストランへ。メニューはレンズ豆と野菜のスープ、ポークの包み焼き、木苺のアイスクリーム。こういう団体さんの来ない小さなレストランでの食事は味も良く、地元のお客さんに交じって楽しい食事でした。
↓レストランの前で。右は現地ガイドさん。
午後からはイソワールに寄ってからクレモンフェランに行くはずでしたが、なにか理由があったのか忘れましたがイソワールの代わりにラ・シェーズ・デューへ。ル・ピュイからさらに北へ1時間ほど。オーヴェルニュの高地にある村です。ロマネスクの教会ではないけれど「死の舞踏」の壁画があるとのガイドさんの説明で思い出しました。この旅の前に読んでいた小池寿子著『死者のいる中世』にでていた修道院です。現金なもので、それまではイソワールの方が良いのに・・・と文句でしたが、急に楽しみになりました。
↓途中の風景
☆ラ・シェーズ・デュー修道院Abbaye de la Chaise-Dieu 訳すると「神の座」というベネディクト派の修道院で、創設は11世紀ですが、現在の教会は14世紀にゴシック様式で建てられたもの。1790年にフランス革命のため修道院は閉鎖。現在は司教区の教会になっています。 14世紀アヴィニョン教皇庁時代にはこの修道院から教皇クレメンス6世を輩出、芸術面の支援や資金調達などに手腕を発揮し、シェーズ・デューはその名にふさわしく繁栄しました。14世紀はまたペストの流行などで「死の舞踏」の図像が彫刻や絵画で盛んに取り上げられるようになってきました。ここの「死の舞踏」 La Danse Macabreの壁画15世紀後半のものですが、ヨーロッパに数多く見られた壁画は塗り替えられたり、壊されてしまったものが多く、残っているのは希少価値があります。
↓教会の片隅にあった「死の舞踏」。カメラ禁止なので絵葉書です。死者も生者も線描のみ、かろうじて教皇と司教に茶が塗られているのは何か意味があるのでしょうか。ゆらゆらとはかなげに蠢く踊り・・・。3つのパネルに分かれ、全長26m。
↓内部/主身廊。浅い尖頭アーチがおおらかな空間を演出しています。
↓16世紀のタペスリー中央に「受胎告知」、左に「アダムとイヴ」、右に祈る騎士。
↓正面扉口内部のパイプオルガン
↓ 秋の午後の明るい回廊中庭で。ハマナスの花は終わり、実をつけていました。
そしてクレモンフェランには夕方到着。ここが今回参加したツアーの最後の宿泊地です。ホテルはカテドラルなどのある旧市街から徒歩で15分くらい。夕食はホテルのレストランで。メニューは不明。
1998秋の旅(11)クレモンフェラン(オルシヴァル&サンネクテール) [1998秋フランス中部ロマネスクの旅]
10/24(土)
午前中はバスでオーヴェルニュ・ロマネスクの名教会を回りました。まずはオルシヴァルを目指して南西へ。クレモンフェランを出発したバスは朝靄のなかピユィ・ド・ドームの麓の火山岩の丘や緑の景勝地を過ぎ、峠からこの灰色の教会を見下ろすようにして、小さな村に入って行きました。
↓谷間のオルシヴァルの村(絵葉書)
☆ノートルダム聖堂(オルシヴァル)Basilique Notre Dame(Orcival)
12世紀にオーヴェルニュ公の献金とシェーズ・デュー修道院の援助により現在の教会が建てられました。西に山が迫っている地形のため後陣は広場に向かった姿。その後陣の外観は素朴ながら繊細な飾り彫刻で縁取られて魅力的な造形です。小祭室から上へ、トランセプトに八角形の交差部の塔とピラミットの形、上昇感のあるオーヴェルニュ・ロマネスク建築の特色を完璧に備えています。
↓後陣/地元産出の安山岩の濃淡で組まれた石壁。
↓教会の周囲には小さな宿も
↓内部/この地方に多い正面向きの地母神信仰の影響の強い聖母子像が内陣に置かれています。スケール感のある内部は森厳さも備えて、谷や山を越えてきた巡礼者の敬虔な気持ちに沿っているようです。
↓柱頭彫刻(絵葉書)金袋を持つ高利貸しが怖い悪魔にどつかれている「Fol Dives」。この図像はオーヴェルニュに多いようです。
↓ オルシヴァルから次の目的地のサン・ネクテールまではピクチャレスクな谷間の眺め
谷間の街や村を過ぎて、ようやくサンネクテールの村に到着。サン・ネクテールはチーズの名前にもつけられた聖人の名前です。ここオーヴェルニュ地方はそのチーズの名産地としても有名です。この教会の建つ丘の周りはひなびた静かな村です。ところがこの教会の管理人は変人といいますか、この教会を愛するあまり?国とたびたびトラブルを起こすそうで、このときも内部は見学不可でした。ただの管理人ではなく、この教会をここまで守ってきた功労者なのでしょう。こういう頑固な人物も必要かも・・・と思いましたが、ここまで来て内部を見学できないのはとても残念。。。教会の傍に小さなショップがあり、観られなかった柱頭彫刻の写真など買い求めました。
秋の紅葉するフランスの田舎にオルシヴァルと並ぶロマネスクの名教会がそのような人間のごたごたもよそに静かに建っていました。内部の彫刻を見るために再訪することももうないでしょう。大きな町から相当な距離があり、この時は個人で行くことは無理と思いましたが、2013に再訪。
☆サン・ネクテール教会Eglise Saint Nectaire
初期キリスト教時代に宣教活動をした伝説の聖人(ギリシア出身の聖ネクテール)は死後この近くのコルナドール山に葬られました。その名前をとって、12世紀にオルシヴァルと同様にオーヴェルニュ公とシェーズ・デュー修道院の尽力により教会が建てられ、巡礼教会として発展しました。
↓西正面から(絵葉書)
↓私の撮った写真はこの一枚だけ。
↓柱頭彫刻「ユダの接吻」(絵葉書)
午後、クレモンフェランに戻り、市内のレストランでベトナム風の中華料理のランチ。このあとは自由行動になりました。明日はツアーから離れてパリに行きますので、友人と鉄道駅まで行き、メモを見せながら習いたてのフランス語で切符を購入。「パルフェ!」と係員に褒められて?気分良く・・・ところが翌日問題発生。。。
クレモンフェランのロマネスク教会ももちろん見逃せません。駅からノートルダム・デュ・ポール教会へ。10月の末、日暮れも早くなってきました。
☆ノートルダム・デュ・ポール教会 Basilique Notre Dame du Port
この教会は6世紀の創建ですが、ヴァイキングに破壊されたあとは11、12世紀に再建。その後19世紀に鐘塔、屋根などが付け加えられました。ですから、オーヴェルニュ・ロマネスクの建築スタイルとしてはあまり魅力は感じられませんでした。そのうえ密集した市街地に建っていますので全体を眺めるのも難しいのです。でもその難点を充分補うのが内部の柱頭彫刻です。あいにく御葬式の最中だったので全部は観られませんでしたが、ロベルティウスが彫ったという力量あふれる造形に特徴があります。↓特に聖母マリアの被昇天、アダムとエヴァなどが印象的でした。
↓そして見逃せないのが南扉口です。当時はここから出入りしていたと記憶しています。現在は修復されてますが、当時は今にも崩れてしまいそうなほど痛々しく、ラントゥの山形アーチも古風さを強めています。
↓教会の全景(絵葉書)/全景を自分の目で視ることができないというのはかなりマイナスポイントです。
坂を少し登って大聖堂(ゴシック)へ。内部はちらりとのぞいただけで見学終了。
☆街角のロマネスク発見
クレルモン・フェランの大聖堂の近くの土産物屋さんでこの絵葉書を見つけました。
「弟子の足を洗うキリスト」順番を待つ弟子が靴下を脱いで準備してます。いかにもロマネスクらしい素朴なユーモアにあふれています。さて何処にこの浮き彫りがあるのかしら?絵葉書には住所が書いてあります。Rue des Gras・・・すぐこの店の前の通りにその彫刻をはめ込んだ民家がありました。この絵葉書を買わなかったらきっと素通りしていたでしょう(マイHPから転載)
★オーヴェルニュの黒い聖母たち
↓最初のロマネスク巡りの旅、オーヴェルニュ地方のあちこちで出会った黒い聖母たち。(絵葉書)
この絵葉書は確か、クレモンフェランの大聖堂の近くで買ったものです。一般に見られる聖母の清楚で優しいイメージとは異なっているので、強烈な印象を受けました。
このうち実物を拝めたのはル・ピュイの聖母子像、白い衣装に身を包み、カンガルーの赤ちゃんのようにお腹のところから顔を見せる幼児イエスが可愛い。
また、この絵葉書には写っていませんが、ロカマドゥールの聖母も奇跡の言い伝えに相応しい凄みのあるお姿でした。「黒い聖母」のルーツはエジプトの地母神イシスとする説もあるとのことですが、ツアーのときのガイドの説明では、土俗的な信仰、例えば古代のケルト人が崇拝し、祀っていた地母神像との関連が濃いとのことでした。キリスト教が一般に広く受け入れられた理由のひとつに、新約聖書では重んじられていなかった母マリアの崇拝を後になって地母神信仰と結び付け、高めた結果とも言われています。その点、砂漠の民である、ユダヤやイスラムには風土的にも受け入れられなかったことは想像できます。実りの大地の母としての地母神崇拝は彼等には無縁の存在であったことでしょう。
一方ヨーロッパでは奇跡の聖母として中世に、カルト的な人気を集めました。今ではフランスのロマネスク聖堂、特にオーヴェルニュ地方の巡礼路に沿って多く点在しています。この地方のロマネスク巡りのもうひとつの楽しみといえるでしょう。(マイHPから転載)
夕食はホテル内のレストランで。最後の夜なのでワインが飲み放題になりました。メニューは鶏レバーのテリーヌ、薄切りサーモン、ビーフ、チーズとサラダ、林檎のデザート、コーヒー。明日からフランスは冬時間になり日本との時差が8時間になります。パリへの列車が早朝になると添乗員さんにも注意され、早めに部屋に戻りました。このとき人任せだったのが失敗のもとでした。。。
1998秋の旅(12)クレモンフェラン~パリ [1998秋フランス中部ロマネスクの旅]
10/25(日)Clermont Ferrand7:47→Paris Gare Lyon11:20
朝は暗いうちに起きだして、パリまでの車中で食べる予定のお握りを作って、いざ出発。見送りにロビーまで来てくれた添乗員さんに感謝しつつ、タクシーでクレモンフェラン駅へ。ところが駅は真っ暗で、まだ入り口のドアは閉まっています。そういえばタクシーの運転手さんが何時の汽車か訊いていたような、そしてまだ早いよと言ってたような・・・。この時点で冬時間の設定を勘違いしていたことに気が付き、慌ててまだ停まっていてくれたタクシーでホテルに引き返しました。寒くて暗い戸外で2時間も待てませんから。進ませる時計の針を遅らせていたのですから2時間も早い~!!添乗員さんが丁度ロビーにいて、勘違いが判明。ツアーの皆さんもバスのドライバーさんも早く起こされてプンプン。ベテランの添乗員さんでしたが・・・。時間があるので朝食をとり、改めて皆さんにお別れして駅へ。駅ではまた困ったことに、エレベーターがなく跨線橋を渡らなければなりません。25Kのスーツケースをやっとこさ運んで乗車しました。朝からの騒動ですっかり疲れてしまった私たちはパリまでの3時間半をほとんど寝て過ごしました。せっかく作ったおにぎりも美味しくなく・・・涙。
そしてパリ・リヨン駅には1時間ほど遅れて到着しました。この日はバスチーユ・オペラが15:00からの予定でしたからハラハラしました。モンパルナス近くのホテルへチェックインしたのですが、ここでも問題発生。。。友人の部屋の鍵がないというのです。夕方まで用意してくれるというので、荷物を置いて慌ただしくバスチーユへ。
♪~「薔薇の騎士」@バスチーユ・オペラ15:00開演
指揮:ウルフ・シルマー 演出:ヘルベルト・ヴェルニケ
オーケストラ&コーラス:オペラ・ナショナル・ド・パリ
元帥夫人:フリシティ・ロット オクタヴィアン:アンネ・ゾフィ・フォン・オッター オックス男爵:フランツ・ハウラータ ファ二ナル:ペーター・シドム ゾフィー:ルース・ジエザック シンガー:マンフレッド・フィンク
この時はまだパソコンを持っていなかったので、情報はJALのプレイガイドで得て、チケットも予約しました。正規の金額(650F)の50%増しくらいだったと記憶しています。
初めてのバスチーユオペラでした。キャストもプログラムをここで購入してはじめて分かったので、わ~い!!ロットとオッターと二人で大喜びでした。おまけに演出がヴェルニケ・・・今思うと夢のようなお話です。
舞台は鏡と階段を使い、すっきりモダンなものでした。しかし衣装がクラッシクでとても美麗。ロットはデボラ・カー(往年のハリウッド女優)のように上品で美しく、オッターの凛々しい青年貴族と小間使いの娘の使い分けがとても細やかな演技、歌ももちろん最高でした。ハウラータがまだ若く、中年の下品な男爵には全然見えませんが歌は◎。
↓銀の薔薇にちなんだお洒落なプログラム(写真は光ってしまいました)
参考映像:R・シュトラウス(1864~1949) <ばらの騎士>
DER ROSENKAVALIERマルシャリン(元帥ヴェンデンベルク侯爵夫人)・・・・ フェリシティ・ロットレルヒェナウの男爵オックス・・・・・・・・・・・・・・・・・ クルト・モルオクタヴィアン・・・・・・・・・・・・・ アンネ・ソフィ・フォン・オッターファニナル(新しく授受された裕福な商人)・・・・・ゴットフリート・ホーニクゾフィー(ファニナルの娘)・・・・・・・・・・・・・・・ バーバラ・ボニーマリアンネ(ゾフィーのドゥエンナ)・・・・・ オリヴェラ・ミリャコヴィッチヴァルツァッキ(陰謀屋)・・・・・・・・・・・・・・ ハインツ・ツェドニクアンニーナ(ヴァルツァッキの仲間)・・・・・・・・・・・・ アンナ・ゴンダ警部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ペーター・ヴィンベルガー侯爵家の家令・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ヴァルデマール・クメントファニナル家の家令・・・・・・・・・・・・・・・・・ フランツ・カーゼマン公証人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ヴォルフガング・バンクル料理屋の主人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ペーター・イェロジッツ歌手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ キース・イカイヤ・プルデイ貴族の未亡人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ インゲボルク・ピプル3人の貴族の孤児・・・・・・・・・・・・・・・・ フェリシタス・エクイルツマリアンネ・ザットマン、エリーザ・ツルマン小間物屋・・・・・・・・・・・・・・・・・・ウルリス・グロースルバッチャー侯爵夫人の4人の召使・・・・・・・・・・・・・・・・ アドルフ・トマシェクヨハン・ラインブレヒト、フランツ・ヴィンマーゲルハルト・パンツェ・ベック美容師・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ハインツ・トツラーレオポルド(オックス男爵の従者)・・・・・・・・・ イェルク・シュナイダーフルート奏者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ルーカス・ガウデルナクモハメッド(黒人小姓)・・・・・・・・・・ クリステーネ・ディルンベルガー4人の給仕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ローヴェント・ヴェルナーヴェルナー・カーメニクカール・ネーヴェンフェール、ヨーゼフ・ポガチュニヒ下男・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ミヒャエル・ハイゲル医者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ヴォルフガング・ベルトナーオーストリア連邦劇場舞台オーケストラウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団指揮:カルロス・クライバー演出:オットー・シェンク収録:1994年3月 ウィーン国立歌劇場この旅から戻った1999.1に道新教室にて視聴夕食はサンジェルマン・デ・プレの鉄板焼きの店で。目の前で焼いてくれるのですが、お肉などを高くひっくり返すパフォーマンスがこちらでは受けているようですが・・・私たちには不評(笑)味はまずまずでした。食事が終わりホテルへ戻りました。ところがレセプションにはチェックインの時とは違う男性が居て、鍵のことなど知らないと言い張ります。前の人に電話してもらったのですが、鍵は無いけどうちは安全だからというのです。友人は当たり前ですが怖がりますし、交渉の上別のホテルに移ることになりました。係りの人の態度も悪く、すごく嫌な思いをしました。なんとかここより5000円ほど高かったのですが、サンジェルマン・デ・プレ教会の向かいのHotel Madisonがシングル2部屋確保できました。マディソンにチェックインしたのは10時になっていました。朝の時差騒ぎに加えて夜の宿替えとまさに受難の一日でした。そんななかで観た『薔薇の騎士』は別世界の華麗な舞台でした。メゾが好きなこともあって、この時からアンネ・ゾフィー・フォン・オッターの大ファンになりました。
1998秋の旅(13&帰国) [1998秋フランス中部ロマネスクの旅]
10/26(月)
この日はパリの美術館巡りで、友人が未訪問のモロー美術館とピカソ美術館へ。私は4年ぶりの再訪でした。
☆モロー美術館(2) 前回は目立つところに立てかけられていた「廃墟に佇むヘレネ」ですが、今回は見当たらず、そのまま見過ごしてしまいました。代わりに気をとられたのがサロメを題材にした「出現」です。洗礼者ヨハネの首が宙に浮ぶ有名な作品です。厚く塗られた絵の具の上に寺院のアーチや柱頭彫刻の線描がほどこされています。そのなかに見覚えが・・・この数日前に観たモアサックの回廊にあった頭が獅子、体が鷲のグリフォンのあの柱頭彫刻に似ているです。ロマネスクのオリエンタルな幻想とモローの神秘的な世界がたとえようもなく美しい調和をみせていました。
↓「ヘロデ王の前で踊るサロメ」1875頃 92×60(絵葉書) 画面全体にグロテスク文様の線描が施されているために別名「刺青のサロメ」と呼ばれています
↓「サロメ」素描 1876 60×36(絵葉書)
↓モローの居間(絵葉書)
☆ピカソ美術館(2) マレのピカソ美術館は門のところまで長い列・・・特別展を開催中でした。N.Yのメトロポリタン美術館から「盲人の食事」や「ひじをつくアルルカン」などの青の時代の傑作が来ていたのです。N.Yへは行ったことがありませんし、メトロポリタン美術館も未訪問ですから、ここでまとまって鑑賞できたのはラッキーでした。この近辺はショップも増えて人の波・・・4年前の静けさが嘘のような、すっかり様変わりしたマレに驚きました。
↓「盲人の食事」1903 95.3×94.6(メトロポリタン美術館から)
↓ 「マネによる草上の昼食」1960 130×195(パリ・ピカソ美術館収蔵)
常設展も鑑賞しましたが、ピカソは多作なので展示替えもあり、初回観たもので再見したかったものがなかったり・・・友人と一緒の鑑賞も思うように動けず、疲れました。昼食は両替のためオペラ座まで行き、近くのビストロで生牡蠣や羊のソテーなどいただきました。サン・ジェルマン・デ・プレの宿で休憩後、近くのサン・シュルピス教会へ。ここにはドラクロワの壁画で飾られた礼拝堂があります。1849~61年にかけて、病身をおして完成させた19世紀宗教画の傑作です。特に「ヤコブと天使の闘い」の今そこに行われているような躍動感と輝かしい色彩に見とれました。秋の夕方、すでに日は沈みつつあり暗くなってきました。淡く差し込む夕陽の礼拝堂での鑑賞でした。電気を点けて観ることもできます。
↓「ヤコブと天使の闘い」(Wikiの画像を拝借)
サン・シュルピス教会の付近はお洒落なブティックやカフェのほかに門前町の名残でしょうか、2、3軒のカソリック関連のお土産屋さんがあり、クリスマスの生誕場面の飾りを購入しました。その時気が付いたのですが、聖家族の傍に若い男が寝そべっている飾りがいくつかありました。店員さんに尋ねたのですが、返ってくる言葉が理解できません・・・後から判明したのですが、「ヤコブの夢」を表していたのです。こういう形のオーナメントはこのお店だけだったのかしら・・・ヤコブのついたものを購入してくれば良かったです。この後のヨーロッパの旅で見かけることはありませんでしたから。時代の流れでしょうかサン・シュルピス教会付近にはこういったお土産屋さんはもう見当たりません。Googleで確認しましたが、アニエス・ベーに変わっていました。
明日は帰国です。旅の最後の夕食はホテルおすすめのレストランで。少々重めのフレンチでしたが(量も多い)、フルコースをいただきました。旅の途中でやや体調を崩した時もあり、友人には心配をおかけしましたが、何とか無事に旅が終わりそうと祝杯をあげ、巡ってきたロマネスクの教会の話で楽しく夜が更けました。徒歩5分ほどのホテルに戻り、スーツケースの整理をして就寝。
↓2泊したマディソンホテルの部屋
10/27(火) パリCDG→アムステルダム→札幌
KLMの直行便で札幌に帰りました(現在は就航されていません)。ツアーでしたが初めてロマネスクの教会を訪ねる旅に参加し、次はロマネスク巡りには欠かせない王道のブルゴーニュ地方へ行きたいという想いが強くなりました。山を越え、谷間を走り、フランスの田舎の美しさに初めて触れた旅。。。この後の旅の主なテーマになりました。
札幌に到着してゲートから出ましたら、TVの取材班が。。。逃げる間もなく寝ぼけ顔が(しかも化粧もはげた)カメラに映ってしまったのです。KLMの名古屋ー札幌ーアムステルダムの就航1周年の日でした。行き先とか聞かれましたが、夕方の地元のニュースですし、誰も見ていないと思っていたのですが、まもなくM市に住む姪から電話。。。(恥)KLMの直行便はヨーロッパへの旅で何度か利用しました。たった5年で終わってしまい残念です。(終)
1999春の旅(1)札幌~アムステルダム [1999春シリア・ヨルダンの旅]
昨年秋にツアーですが初めてのロマネスク(フランス中部)の教会巡りをしました。あちこちの教会で旧約聖書の説話場面を表した柱頭彫刻や壁画を多数観たことで、その旧約の舞台である中近東に行ってみたいという気持ちがつのり、W社のツアーに参加することになりました。札幌からKLMでダイレクトでアムステルダムへ飛び、前泊してからヨルダンの首都アンマンへ入るというのも身体に無理なく思い、選択。今回の旅ブログは昨今のシリアの事情が特に悪く、旅の楽しい思いを綴るだけではない気の重さもありますが、平和だったあの頃のシリアを一介の旅人の覚書ですが少しでも蘇らせたい想いでアップします。
日程/13泊15日
千歳→アムステルダム(1)→アンマン(1)→ぺトラ(3)→ボスラ(1)→パルミラ(2)→ディレゾール(1)→アレッポ(1)→ホムス(1)→ダマスカス(1)→(機中泊)→アムステルダム→千歳
まずはMAPの作成に取り掛かったのですが、苦戦。アラビア語の表記しかないところやホテルやレストランもマークのつかない(廃業?)ところも多数です。Google earthのストリートビューもほとんどなく、確認ができません。
Map
4/14(水) 千歳→アムステルダム
アムステルダム/インテルホテル1泊
千歳空港のKLM搭乗口で集合。W社の添乗員さんが名古屋からすでに搭乗されて、ゲートまで出迎えてくれました。顔を見て「あらら!」昨年のベトナム・カンボジアの旅の名古屋支店の添乗員さんでした。さっぱりした気性の方で、私とは気が合いましたからラッキー!札幌は私だけでしたが函館や旭川からの参加者が5名に名古屋からの17名の計22名で一路アムステルダムへ。夕方アムステルダムに到着。明日もまた長距離移動ですから、チェックイン後は出かけずゆったり過ごしました。
1999春の旅(2)アムステルダム~アンマン [1999春シリア・ヨルダンの旅]
4/15(木)
アンマンまでの飛行機の出発は夕方です。それまでアムステルダムの観光をしました。まず、郊外のチーズ農家へ。チーズの製造過程など見学しました。即売もしていましたが、何しろ旅は始まったばかりですから手が出ません。アムステル川沿いののどかな緑地の風車見学もツアーならではのお決まりコースですが、風車を近くで見たことがなかったので◎でした。風車はレンブラントが度々ここへきてスケッチしていたので「レンブラントの風車」と呼ばれています。
↓立派なレンブラントの銅像もあります。
この後はいったん市内に戻りアムステルダム国立博物館へ。ここは3回目ですが、ツアーなので大人しく(笑)皆さんと一緒に回りました。なので、レンブラントやフェルメールの超有名な作品群のみ解説付きで鑑賞して終わりました。
昼食はダム広場に近いDE NISSENで。食後は徒歩で運河沿いの花マーケットへ。
バスで木靴工場に立ち寄り、夕刻のフライトでアンマンに飛びました。途中ベイルートに寄りアンマンへは夜になって到着。ベイルートからアンマンまでは南下したほうが近いのですが、イスラエルとの紛争中のためヨルダン川西岸を避け北方向からの大回りルートをとらざるを得なく・・・大層疲れました。アンマンでは市内の高級ホテルのメディリアンに1泊しました。
1999春の旅(3)アンマン~ぺトラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]
4/16(金)
実質的にはこの日から中近東の旅になります。ヨルダンの首都アンマンの簡単な観光をしました。
↓出発前にホテルのドアボーイ(民族衣装のおじさん)と
アンマンはローマのように7つの丘を持ち、紀元前16世紀ごろに築かれた都市ですが、古代のメモニアル的な遺跡はさほど残っていません。現在の都市は古代都市の上に築かれたからだそうです。まずは丘の上のアンマン城址から白と灰色の家がびっしり並ぶ眺め。古代ローマ時代の円形劇場が見えました。
過密都市になったのは中東戦争の末、アンマンに逃れたパレスティナ難民が現地ガイドさんの話ではアンマン周辺だけで100万人!という…それを受け入れ、イスラエルとも近年友好関係を築いているというレバノンという国、懐が深いと感心しました。
↓アンマン城址には2Cに建てられたヘラクレス神殿の遺跡が残っています。神殿の建つ前は古戦場で、ダビデ王が水浴中の人妻パテシバをみそめ、后にするためパテシバの夫ユリヤを戦死させたところと伝えられているそうです。旧約(列王記)に記されたこの話はレンブラントの絵画にも描かれた有名なお話なので、その話の信憑性は疑わしいものの…想いは旧約の世界に飛びました。
近くにヨルダン考古学博物館がありましたが、ツアーの日程には含まれていなかったのか、入館しなかったのです。とても残念でした。この博物館には1947年に20世紀最大の考古学発見とされた「死海文書」の一部が展示されていたからです。
バスはアンマンを離れ南西へ1時間ほど走り死海へ。↓海抜0メートルの地点で。朝に比べるとぐんと気温が上昇してきました。
↓死海の畔のDEAD SEA HOTEL。ホテル横の簡易脱衣所(シャワー付き)で水着に着替えます。
海抜マイナス400mの地点にくると、海水浴ができる暑さになりました。恥ずかしながら「かなづち」の私ですが、死海では溺れることなく、簡単に浮かびました。5分ほど入っていただけですが、体はつるつるでとても気持ちが良かったです。
ホテルの売店では死海グッズが並んでいましたが、ミネラルたっぷりという死海石鹸を購入。そして、ネボ山へ向かいました。
↓死海の対岸はイスラエル
↓ネボ山(絵葉書)
↓途中で見かけたベトウィン族の羊飼い。羊は何を食べてるのかと思うほど荒涼とした地です。
ネボ山はモーゼの終焉の地。旧約の「出エジプト記」などに記されたモーゼの生涯は荒野を40年も彷徨った末、約束の地を目前にしながらこの世を去りました。モーゼはイスラエル民族の指導者としてばかりではなく、新約「使徒言行録」でもモーゼは預言者として重要な位置を占めています。
↓ネボ山上ではモーゼの民を救ったエピソードにちなんだ「青銅の蛇」のモニュメント。(絵葉書)
↓記念碑(絵葉書)。左に見えるバジリカ様式の記念教会には5、6世紀のモザイクが残っていますが、カメラ禁止でした。
↓最近撮影されたNETの写真を拝借。訪問当時に比べるとずいぶん整備されています。
昼食はネボ山近くのSUAGHA RESTAURANTで。食後バスで15分ほどのマダバへ行き、聖ジョージ教会(ギリシア正教)の見学をしました。
☆聖ジョージ教会(マダバ)には世界最古といわれる6世紀のパレスチナのモザイク地図が残っています。中心はエルサレムの市街地がかなり正確に描かれています。
↓エルサレムの部分(絵葉書)
↓教会内部(イコノスタス)
マダバからデザート・ハイウェイを南下してぺトラへ。19:00過ぎにようやく到着。ぺトラではモーベンピックホテルに3泊しました。夕食はホテル内のレストランで。ブッフェスタイルでしたが、羊を目の前で炭焼きしていて、美味しくてお替りしました。この日は盛りだくさんの観光でした。そのうえマダバからぺトラまでのバスが長く、疲れました。ここでは3泊しますから、少しはゆっくりできるかしらと思ったのですが…。
1999春の旅(4)ぺトラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]
4/17(土)
↓3泊したぺトラのホテル。部屋も広く、ロケーションも抜群、ホテル内のレストランもディナーをブッフェスタイルで3回食べましたが、種類も豊富で飽きなく美味しかったです。スパイス好きなので中東料理は◎でした。
~ この日は終日ぺトラの観光をしました。朝食を済ませ、9時少し前にホテルを出発、徒歩ですぐ近くに観光センターと曳き馬の乗り場があります。シク(隘路)の入り口まで、アルバイトらしき少年の曳く馬に乗ってのんびりトコトコ1Kくらいの道程です。歩く人たちも多いのですが、私たちのグループはお年寄りが多いので・・・。馬はニセコや千歳で何度か乗ったことがあり(曳き馬で)、大好きなので、もっと乗りたかったくらいでした。
↓シクの入り口で。
↓30分ほど岩山の中を歩きます。
↓ナバティア時代の祠。両側に水路跡の窪みも残っています。
↓上を見上げると岩山が恐ろしかったり
↓青空をバックにイチジクの実?
↓摩耗していますが人物らしき像も。右は現地ガイドさん。説明を聞いたはずですが記憶にありません。
↓そしてようやくエル・カズネ(宝物殿)が見えてきました。写真では奥のほうがピンボケになっていますが、切り立った崖の隙間から見えた朝日に輝く薔薇色のエル・カズネにわ~お!
↓エル・カズネの正面
↓正面に客待ちするラクダのタクシー
↓内部は狭く奥へは入れません。エル・カズネは宝物殿という意味ですが、実際はナバティアの王の墳墓または葬祭殿といわれています。入口から柱頭彫刻をパチリ
★ぺトラ遺跡群は自然の広大な岩山を削り出して造られています。その岩肌は多彩な縞模様を持ち、ユニークで神秘的です。シクの果てに現れ、印象的に登場するエル・カズネと1時間近くも岩山を登って辿り着くエル・ディルの2つの美しい建造物のほかに王家の墓や列柱通りやローマ劇場など。1日の観光では足りないほどの見どころが満載です。
紀元前6世紀にはエドム人によって岩山の要塞が築かれていたと言われていますが、歴史に登場するのは紀元前3世紀以降のナバティア人の都市として、エジプトからダマスカスに至る交易の中継地として繁栄し、一大帝国に発展してからです。しかし、106年にはローマ帝国の属州になり、その後の自然条件の悪化もあり力を失い、7世紀頃には忘れ去られてしまいます。幻の都市として忘れ去られていたぺトラが再発見されたのは1812年のことでした。スイスの探検家によって1200年の眠りから覚めたぺトラです。1985年には世界遺産に登録され、映画『インディージョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなり、世界的にも人気の観光地になりました。
↓エル・カズネの低い視点からの絵葉書。1839にDavid Robertsの描いたものです。
David Roberts(スコットランド1796~1864)の作品集はエジプトへ行ったとき購入してきていたので、お土産屋さんでこの絵葉書を見つけたときは「え~!ここにも来て描いてたの~」とびっくり。エキゾチックな詩情にあふれ、写真のなかった時代の貴重な記録でもあります。
さて、エル・カズネからあちこちに点在する遺跡めぐりです。
↓ローマ時代の列柱の並ぶ大通り
↓大通りの終わるところにローマの神殿
ランチはこの近くにあるレストランのテラスで。ミモザの黄色い花が岩山に映えて綺麗でした。午後からの山登りに備えて軽めに食べて、さぁ~出陣!と気合だけは十分でしたが・・・喘ぎ喘ぎようやく皆さんのしんがりでなんとか到達できました。私とはそう変わらない、または年上の年齢の方たちの健脚なこと!1時間はかかると言われた山登りを30分で登ってました(ちなみに私は50分)。
↓登り道で
早く早くと手招きされ記念撮影が続き、終わってようやくエル・ディル(修道院の意)を見学。
↓写真はやはり西日が強く白っぽく写りました。ナバタエア式の柱頭を持つエンタブラチュア(柱の上に乗る水平材の総称)とのこと。一見イオニア式のように見えますが・・・。
↓エド・ディル(絵葉書)
↓後方にモーゼの兄アロンの終焉の地であるホル山
↓岩山を下り
元来た道を戻りました。山登りを含めて10K近くを歩き、ふらふら状態。途中でよほどロバのタクシーに乗ろうかと思いましたが、最後の曳き馬のチケットも残っていますから勿体ないし・・・シクを抜け、最後の1Kは馬の背に揺られて、終いには足を引きずりながらホテルへ。日頃の運動不足を痛感したハードな一日でした。この日を共に過ごしたお仲間は一気に親しくなった感じ。賑やかにビールで乾杯したぺトラの夜でした。
1999春の旅(5)ぺトラ(ワディラム&アカバ) [1999春シリア・ヨルダンの旅]
4/18(日)
この日はぺトラから南下して、ヨルダン唯一の港町アカバへ。途中、ぺトラ近郊の街にある「モーゼの泉」と赤い砂漠「ワディ・ラム」を訪れました。
↓「モーゼの泉」 イスラエルの民と共に40年間砂漠をさまよったモーゼが、水を求める民のために杖で地面をたたき、泉が涌き出たという奇蹟が残っています(民数記)。バスの中から建物を撮ったのでガラスが反射しています。
↓一人ずつ泉に手を浸しての記念フォト。おっと!帽子が落ちそう~。
アカバの手前から西に30Kほど走り、ワディ・ラムへ。岩山を抜けるとあのアラビアのロレンスの世界・・・バスから4WDに乗り換えとは聞いていましたが、
↓ジープではなくトラックで、荷台にベンチが取り付けてありました。3台に分乗して出発
↓「この人誰~怪しいおばさん 笑」、旅の前に砂漠の砂塵防護のためのスカーフ、マスクなど用意するようにと注意書きがあり、忠実に実行したのです。
映画『アラビアのロレンス』の冒頭場面のあの砂漠の情景は素晴らしかったです。覚えてらっしゃる方が多いと思います。あの映画を封切の時観た1963年と現在2016年では中東の状況は激変していますが、アラビア独立のために戦った英雄だったのかどうか・・・現在はマイナス面の評価も多く複雑ですね。↓予告編 音楽が美しく哀しい~♪
https://www.youtube.com/watch?v=-tZEfARQNbU
↓映画のワンシーンにも出てきた「ローレンスの泉」の付近に羊たちが休憩中。
↓アカバに停泊しているクルーズ客(フランス人たち)がやってきました。私たちのマスク姿にぎょっとしていたようです。
↓石器時代からの歴史のあるワディ・ラムのカザリ山峡にはナバティア時代の壁画や文字などが残っています。
↓ここを登っていくと岩絵が観れるそう・・・ですが、ハードなのでパス。
↓ 文字の刻まれた岩
↓ここにもラクダのタクシー
↓ワディ・ラムには遊牧民のベトウィン族が住んでいます。観光用の黒いテントが見え、ここで強烈な日差しを避けて休憩。
↓遠くに鉄道列車が見えましたが、貨物専用とのこと。
↓赤い砂漠の風景
アカバの町へ行き、昼食をとりました。Gulf Hotelのレストランで魚料理を食べた後は港からグラスボートでアカバ湾(紅海)の遊覧をしました。
↓アカバの浜辺
↓遊覧船から。湾の半分はイスラエル領です。国境の町エイラットが見えました。
アカバは対岸はエジプトのシナイ半島、サウジアラビアは南に18Kと、複雑な国境地帯の町でもあり、紅海のリゾート地としても人気の町です。アカバからデザート・ハイウェイを北上してぺトラに戻りました。
↓途中のネゲブ砂漠を一望する展望台で。
ぺトラに戻り休息。着替えてホテルのレストランで夕食の前に自撮り。お気に入りのチャイナカラーのブラウス(コットン)を着て。
1999春の旅(6)ぺトラ~ジェラシュ~ボスラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]
4/19(月)
ボスラ/シャームパレスホテル1泊
3泊したぺトラのホテルを出発して、バスは一路デザート・ハイウェイを北上し、アンマンでバスを乗り換えをさらに48K北西のジェラシュへ。
ジェラシュは古代ローマ時代からの遺跡が大規模に残っています。746年の巨大地震で一瞬のうちに廃墟になるまでは多くの市民の住む大都市でした。石器時代からの人跡も認められたジェラシュはヘレニズム以降は隊商都市として栄え、4世紀にキリスト教が伝わり、教会の跡地もいくつか発見されました。
長いドライブの後、ジェラシュに到着したのはすでに昼時で、ランチはJarazaという緑に囲まれた郊外のレストランで。遺跡まではまたバスに乗り、南門付近で降車して、見学しました。
↓丘の上に遺跡群が見えてきました
↓南門をくぐると扇形のフォーラム広場。学生さんたちの修学旅行で賑やかでした。
↓アルテミス神殿
↓列柱通り。石畳の道にはローマ時代の馬車の轍の跡が残っています。
↓ローマ劇場跡
↓遊んでいた地元の子供たち
↓他の遺跡。ビザンティンの教会跡など。細かい彫刻のディティールも後の西欧の中世キリスト教美術につながる歴史を感じさせ、興味深いものでした。
壮大な遺跡ですが、保存状態は良好です。しかし、ありがちな人工的な補修も目につかず、自然豊かな環境もプラスして素晴らしい遺跡です。
ジェラシュを後に、バスで国境通過してシリアに入りました。正確にはパスポートコントロールではバスを降り、プレハブの建物や鉄条網の横を2~300M歩いて、シリアへ。その国境から西に50Kのボスラの町で宿泊しました。夕食はホテル内のレストランで。
↓ホテルの部屋と階段踊り場のアラビア風休憩コーナー