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1999春の旅(7)ボスラ~マルーラ村~パルミラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/20(火)

パルミラ/シャームパレスホテル2泊

  朝食を済ませ、ここ古代都市ボスラの観光へ。ローマ帝国の州都として栄えた要衝の地ボスラは穀倉地帯としても繁栄しました。2世紀にローマの都市計画に沿った列柱の並ぶ道路や劇場、浴場などがつくられました。現在は寂れた町に遺跡として保存されています。1980年に世界遺産に登録。

↓遺跡群の入り口付近

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↓現在も使われている大貯水槽(200m×150m×8m)

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 そしてボスラの遺跡のでも一番の見どころは古代ローマの円形劇場です。7世紀にイスラム教徒に占領されましたが、侵略者を防御するのに利用できると破壊をまぬがれたのです。

↓全景イメージはGoogle Earthより。

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↓完璧な形で残っています。絵葉書

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↓城壁のような堅固な壁に囲まれています。

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↓舞台の背景はコリント式の円柱で支えられた壁とその上に部屋も。玄武岩で築かれているので黒っぽい色。15000人収容で、音響効果も抜群なのも有名です。

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↓濠には羊さんたち

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↓ローマ式浴場跡

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↓アカンサスの柱頭

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 ホブスパンをおやつにほおばりながら列柱通り~大貯蔵庫跡へと見学。少しの間フリータイムになり、近くを散策しました。

↓イオニア式の円柱を門にしている民家

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↓ 近所のご婦人たちに写真撮影は断られ・・・はるか向こうに去っていく姿だけ。

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↓子供たちはOKでした。遺跡の中で無邪気に遊ぶお嬢ちゃん。

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↓ ロバと散歩する少年。

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そして、ボスラをあとにマルーラ村へ向かいました。途中ダマスカスでトイレストップし、ダマスカスから北西50Kほどのマルーラ村に到着。

↓聖サルキス(セルジオス)教会がバスから見えました。

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↓13世紀のイコンも飾られたギリシア正教の教会です。キリストが話していたというアラム語で、案内係の娘さんが「主の祈り」を捧げてくださいました。

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↓天蓋付きの祭壇。天井の青に聖母マリアの姿(下は絵葉書)

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 ランチはサフィールホテルのレストランで、日本風のローストチキンをいただいて、午後からはマルーラ村のもうひとつの見どころの聖タクラ教会へ。聖女タクラが迫害を逃れて過ごしたという洞窟に建てられた教会です。(修道院も併設)

↓背後に岩山が迫っています。記憶が薄れていますがエレベーターで昇ったような・・・。

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『キリスト教美術図典』によると聖女タクラ(テクラともいう、1世紀ごろ)は東方の聖パウロの布教と密接な関係があり、最初の殉教者の1人と想定された架空の聖女とのこと。パウロの説教をきいてキリスト教徒になり、異教徒の許婚から告発されて町を出ます。聖パウロに従って布教し、数々の苦難にあい、最後はここの岩山に逃れて、迫害者の前で岩山は閉じたことになっています。(新約/パウロ行伝)

↓聖女タクラの墓室

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そして、一路パルミラへ。途中シリア砂漠の広がるところで写真ストップ。

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 皆で写真を撮りあっていましたら、羊飼いの若い男性が二人物珍しげにやってきました。手を握りあっているのが珍しい・・・習慣なのか?仲良しなのか?

 長いバスの旅でしたが、夕刻ようやくパルミラの遺跡に近いホテルに到着。夕食はホテルのレストランでいただきましたが、食べ物が合わなかったのか、疲労のためか夜中に下痢が始り・・・さあ大変!。


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1999春の旅(8)パルミラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/21(水)

  何度もトイレに起きたので、寝不足です。この日はパルミラ遺跡の日の出を観るために早朝集合でしたが、行けるわけもなく添乗員さんに連絡しました。下痢をしやすいのでお薬は持参していたのですが、添乗員さんはこちらの下痢止めでないと効かないからと、部屋に届けてくれました。早速服用して、一眠り。目覚めると10時頃です。なんとか地元の下痢止めが効いたみたいです。お腹には何も入っていませんので、朝食室に行ってパン少々と紅茶で様子を見ることにしました。ツアーの皆さんはすでに観光に出かけています。「せっかくパルミラに来たのにぃ~」と気持ちは焦ります。独りで観光しつつ、皆さんとはランチの場所まで追っかけるつもりで、タクシーを呼んでもらいました。タクシーはトラックでしたが(笑)、まずベル神殿へ。待っててもらおうと思ったのに、なんとかかんとかと言って置き去り(涙)。ツアーですから人任せの旅です。遺跡の概要や地図もまだ頭に入っていません。「パルミラで何見るの~?」と、ほとんど白紙状態でベル神殿の前で途方に暮れる私。。。でも、ベル神殿の敷地に入った途端、救い主が現れたのです。日本人の観光客(中年の男性1人、女性2人)が私を怪訝そうに見ています。独りでシリアに来たのかとびっくりしたようで、声をかけてきました。彼らは兄妹で妹さんがご主人の仕事でダマスカスに住んでいて、この機会にシリア観光しようと二人が日本から来たとのこと。物価が安いので車(運転手つき)で数泊の予定で回るそうです。親切な方たちで、本当に助かりました。

★パルミラ  シリアのほぼ中央に位置するオアシスで、古代の隊商都市遺跡。1~3世紀にローマ帝国属領の商業の中継都市として繁栄したのですが、260年ごろ独立を図り王国となったのもつかの間、272年ローマのアウレリアヌス帝によって攻め落とされ、当時の女王ゼノピアはローマに連行されティボリで没。市内には巨大なベル神殿をはじめ多くの神殿、凱旋門、列柱道路、円形劇場などの建築物が切り石で構築され、ネクロポリス(墳墓群)が城外北西に連なっています。1980年世界遺産登録。

↓ベル神殿(西側入り口から)

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↓ベル神殿エリアに残る浮彫

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↓ベル神殿祭室(北側)

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↓ベル神殿祭室(南側)

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↓ベル神殿の全体図(Google earthより)

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↓ベル神殿

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 ベル神殿の見学を終え、円形劇場へ。ラクダのタクシーも待っていましたが、ランチの場所まで送ってあげるからとの3兄妹様たちのご親切に甘えさせていただきました。

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↓凱旋門

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↓列柱道路

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 ここから徒歩15分くらいの町に入ったところのPalmyra Touristレストランまで車で送っていただいて感謝でいっぱいでした。暑い砂漠の道を15分と言えども、体調を崩した私にとっては辛いことでしたから。。。3兄妹さまは「旅の神さま」に違いありません。

オアシスの町らしい緑に囲まれたテラスレストランで、ツアーの皆さんは丁度お食事中でした。私もご心配おかけしたことを詫びつつ、消化の良さそうなものを少々いただきました。道路を隔てた向かい側にパルミラ考古学博物館があり、みなさんはすでに見学が終わっていました。添乗員さんが付いてきてくれてすでに昼休みでしたが、チケットをもう買ってあると交渉してくれて、無事入館できました。男性の係員も嫌がらず親切にしてくれました。本当はカメラ禁止なのに他に誰もいないから写してもいいよって・・・。

↓これはかなり有名なパルミラの出土品と言って、写してくれました。

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 古代オリエントの伝統を反映した貴重なコレクションの数々を貸切状態で観ることができました。この後はツアーのみなさんと共に再び円形劇場~アゴラ~テトロピロン(四面柱)~葬送殿~ディオクレティアン神殿と巡りました。体調のせいかついて歩くのが精いっぱいだったようで、写真はありません。いったんホテルに戻って休憩時間になり、私はベットで横になっていました。少し元気になったので、皆さんとミニバスでアラブ時代の要塞跡へ。日没のパルミラの眺めを楽しみました。

↓競馬場跡

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↓パルミラの主要な遺跡群方向を遠望

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↓夕暮れ

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↓ツアーのある参加者が撮った素晴らしい写真(帰国後送っていただきました)

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↓パルミラの日没

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 夕食はホテルのレストランで。お腹の調子もまずまず快復しました。

↓パルミラのホテルの部屋と部屋からの眺めです。オアシスの緑に囲まれた素敵なホテルでした。

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1999春の旅(9)パルミラ~ディレゾール(ドゥラ・エウロポス&マリ) [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/22(木)

↓ 朝、パルミラを出発(ホテルのロビーにて)

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 パルミラから北東へシリア砂漠を250Kほど走りディレゾールへ。

↓シリア砂漠の広大な土と砂の景色。はるか向こうにベドウィン族でしょうか遊牧民たち。

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↓ 皆で記念写真を撮りあっていましたら、いつのまにか少年がやってきました。皆のモデルになってくれて、ありがとう!どこぞの国のようにお金をせびるようなこともなく、素朴な子でした。

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 そして、しばらくバスはひた走りました。砂漠の向こうにディレゾールの町とユーフラテス河が見えてきました。「はるばるここまでやってきたのね~」感無量でした。チグリス、ユーフラテスはいうまでもなく世界四大文明のひとつであり世界最古のメソポタミア文明の発祥地です。ほとんど資源を持たない乾燥した果てしない土漠に生まれた文明と旧約聖書の世界です。

 ↓ ユーフラテス河/ディレゾール橋から

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↓適当なディレゾール橋の写真がありませんので、Netから拝借。フランス統治時代に架けられた巨大な吊り橋ですが、何カ所か橋桁が設置されているので、揺れはあまり感じられませんでした。橋の向こう側から放課後らしい高校生が数人やってきました。私たちを見て人なつっこく話しかけてきました。言葉は通じませんが「ナカタ、ミウラ」は分かりました(笑)。サッカーが大人気のようです。

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ランチはユーフラテスの川沿いのシャームホテルのレストランで。シリア名物クッヴラルシュ(牛乳とヨーグルトで煮込まれた牛肉料理)をいただきました。

↓レストランから。風が吹いてきて向こう岸は霞んでいます。小さく写っていますが猫が川を眺めていました。

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↓ランチの後はバスに乗ってユーフラテスに沿って南東へ。80Kほど走ると砂漠の向こうにデュラ・エウロポスの壁門が見えてきました。

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↓ 予約制のようで閉まっていましたが、係員がオートバイで間もなくやってきました。

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↓ 上空からのDoura Europos遺跡の全景(Google earthから)城壁に囲まれ、区画が碁盤目になっているのを確認できます。

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★Doura Europosデュラ エウロポス (Salhiye/現在はサルヒエと呼ばれる)遺跡は紀元前280年頃マケドニアの植民都市として建設され、隊商都市として繁栄。165年ローマ帝国に占領されてからは軍事都市になり、数々の神殿、シナゴークや初期キリスト教の洗礼室などが建てられました。しかし、256年サザン朝ペルシアによって破壊され、4世紀には砂に埋もれ歴史上から姿を消します。20世紀になってからイギリス軍がアラビア人との戦いのときに偶然発見、発掘調査が進みました。発掘された各々の壁画は旧約聖書の物語を題材にしたものも多く、ダマスカス国立博物館やイエール大学に保存されています。現地には岩や砂地が残るだけですが、ガイドさんに従ってシナゴークの跡地など巡りました。   

↓フランス語の案内板がぽつんと立っているだけです。

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↓集会所?

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↓遺跡の向こうはユーフラテスの流れ

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↓河畔の白い家は発掘に携わる人たちの宿泊所。

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 さらに南東へ30分ほど走るとシリアに残る遺跡のなかでも有名なマリに着きます。

★マリMariはユーフラテス河中流の古代都市遺跡。1933年以来フランスの考古学者アンドレ・パロ(1901~80)の指揮する調査団によって発掘。シュメール初期王朝時代(BC2700頃~2350頃)、から神殿の建造が始り、、BC18世紀には全盛期を迎え広大な王宮が築かれました。マリからは数多くの美術品が発見され、ダマスカスやアレッポの博物館、ルーブル美術館に分蔵。また「マリ文書」と呼ばれる粘土板文書も多数発見され、これによってメソポタミア古代史の編年は大きく変わったとされています。マリの終焉はハンムラビの治世下の破壊によるものでした。

 それほど有名かつ重要な遺跡ですが、すでに発掘は終わり訪れる観光客も少なく、まさに「強者たちの夢の跡」。

↓古びたフランス語の看板

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↓王宮跡(テントをかけて保護)

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↓貯水漕

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↓水道跡

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 2頭の青銅のライオンのあったダガン神殿跡など見学しました。出土品をアレッポやダマスカスでこの後、観ることができると思うと心が躍りました。私たちグループのほかに10代の姉妹を連れたフランス人のファミリーが来ていましたが、娘さんたちの「こんなとこ面白くない~」と言わんばかりのうんざり顔。ご両親は興味津々の様子でしたが、親の心子知らず・・・ですね(どちらもご同様で 笑)。

 ディレゾールに戻り、シャームホテルにチェックイン。夕食もホテル内のレストランで。

↓砂っぽく汚れた服を着替えて夕食前に自動シャッターで

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↓ホテルの部屋

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1999春の旅(10)ディレゾール~リサファ~アレッポ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/23(金)

 ディレゾールを朝出発し、北西方向へバスは走り、リサファの遺跡に到着。

★リサファの遺跡  リサファ(古名セルジオポリス)にはローマ帝国時代の6世紀に建設された聖セルジオ教会があり、巡礼地として栄えましたが、サザン朝ペルシアの侵攻により、街は壊滅。ビザンティンの聖堂の貴重な例として土漠の地に残っています。

↓聖セルジオ教会の身廊(良い写真がありませんので、Netから拝借しました。アプスは円形ですが、後陣外観は方形というプラン。記憶が薄れていますが、1999年当時はまだ下の写真のように整備されていない頃、もっと荒れた感じでした。

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↓うっすらと残るクロスの跡

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隊商都市として栄えたことがうかがえる6つの大きな貯水槽、モスクの跡など徒歩で見学。まだ体調が戻っていなくて、乾燥地帯のため持病の咳もでて・・・疲れました。

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 メソポタミアはシュメールとアッシリアに分けられます。前日訪れた古代都市国家マリはシューメール(ユーフラテスの下流、主に現在のイラク)の圏内ですが、二つの文化が交差しています。今日から巡るアッシリア(シリアの名前はここから)はシュメールより西側、時代ももっと降りた文明です。北シリアには3世紀からの初期キリスト教(ビザンティン)の教会堂もいくつか残っていますが、上記のリサファ以外は未訪問のままに終わりました。

↓アレッポへの途中、石油掘り井戸が見えました

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 アレッポに到着。2時ごろ、遅いランチを市内のAl Karamで。仔牛のライス詰めクリームソースなどいただきました。

★アレッポ  ダマスカスに次ぐシリアの大都市。古代から中世までメソポタミアと地中海を結ぶ交易の中継地として繁栄しました。旧市街には全長12Kに及ぶ長大なスークを擁し、12世紀に築かれた城壁に囲まれ、丘の上にはアレッポ城が聳えています。1986年に世界遺産に登録。

ランチの後はアレッポ考古学博物館へ。内部はカメラ禁止でした。そのためか、ほとんど記憶に残っていませんので、復習を兼ねて参考書の『シュメール』『アッシリア』人類の美術シリーズ(新潮社)からスキャンしました。

↓博物館入口(私の撮った写真は行方不明なのでNetから拝借)にはテル・ハラフ出土BC9世紀の巨像(コピー)がお出迎え。

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 この巨像が発掘されたテル・ハラフTel Halafはアレッポから北東に300Kほどに位置し、メソポタミア原史時代の一時期がこの都市の名前をとってハラフ期と呼ばれていました。その後2000年以上も見捨てられていたのですが、紀元前11世紀ごろ廃墟の上に新しい都市が再建され、カブル川に突き出たさほど広くもない丘(テル)に神殿や宮殿がひしめくように建てられ、奇異な彫刻群が集められていたのです。上記の巨像はカバラ宮殿の玄関を飾っていました。門に置かれていたアレッポに収蔵されている<人さそり>も訪れるものに恐怖を与えたに違いないです。ハラフの発掘にはドイツの考古学者オッペンハイマーが携わり、ベルリンに持ち帰ったコレクションはハラフ博物館に展示していたのですが、第二次大戦で建物ごと破壊され、バラバラになった破片は復元できたものはベルガモン博物館に収蔵されています。黒い玄武岩のボディに白目、その黒い眼が強烈な印象でしたので、出土したハラフに寄り道検索して長くなりました。

↓ハラフ出土の「聖霊と有翼円盤」腰羽目の浮彫(BC1000年頃)/アンドレ・パロ『アッシリア』よりスキャン

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↓「偶像」女神 BC3000年頃(左)と「生贄を捧げ持つ人」(部分)BC2000年頃 /両方ともアンドレ・パロ『シュメール』からスキャン。

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アレッポの博物館にはマリの青銅のライオン、神官や王の像、マリやエブラの粘土板、円筒印章、粉ひき、抱き合っている夫婦像など多数。

 さて、博物館からアレッポ城へ。

↓全景(絵葉書)

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中央門~貯水槽~小モスク~大モスク~見晴らしのテラス~新しい劇場~王宮跡のサウナ(イスラム風)~ミーティングホール~王の抜け道~中央門とガイドさんについて歩きました。

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↓近くにモスクのミナレットが見えて、古都アレッポの眺め。

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アレッポの宿はシャバ・シャームホテルで1泊。夕食はホテル最上階のパノラマレストランで。

↓ホテルの部屋

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1999春の旅(11)アレッポ~(エブラ&ハマー)~ホムス [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/24(土)

 この日はまず、アレッポのスークの見学とショピングを愉しみました。シリアの人々の日常に触れることができ、スークのアラビアチックな異空間もとても印象深いモノでした。

↓スークの石積の天井に小さな明り取り窓が幻想的。

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↓ロバも通行してます

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 休日の翌日だったこともあり、人出はそう多くなく、シャッターを下ろしている店もちらほらでしたが、

↓肉屋さんらしき店先に不思議なモノが・・・ガイドさんに訊くと羊のひずめとか。スープとかシチューに使うのでしょうか?

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↓こちらは串焼き屋さん。炭火で焼いてました。

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↓臓物屋さん?右に選挙?のポスター。シリアは軍事国家なので、アサド大統領(父)をはじめ強面の軍人さんのポスターが目につきます。

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↓ オリーブの漬物や香辛料を売る食料品屋さん。ユダヤ系らしく左上に貼ってあるポスターも普通の人。

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↓八百屋やさん。中東料理は前菜の種類も多く野菜も美味しかったです。

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↓スークの雑貨屋さんのおじさん。ここでオリーブ石鹸を10個ほど購入しました。当時日本ではソニープラザでしか売ってませんでしたし、値段も500円以上してましたから、1/5~1/10くらいでゲット。友人たちへのお土産に喜ばれました。

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 ツアーの全員がオリーブ石鹸を購入しましたから、おじさんも大忙し。長い棒状のものをカットするので時間もかかりました。

↓スークの近くの古い民家。2階に木製の張り出し部屋がついています。

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 アレッポの街歩きをもう少ししたかったのですが、急かされるようにバスに乗り南下。古代都市国家エブラの遺跡を見学しました。といっても建造物らしきは残っていません。緑の小麦畑や野原に囲まれた丘の上の廃墟に爽やかな風が吹き、崩れた石の陰にポピーやアザミが咲いていました。

★エブラ遺跡   アレッポの南西、数十キロのTell Mardikh(テル・マルディーフ)という丘に位置し、BC3000年後半とBC2000年前半の2つの時期に重要な都市国家でした。その名前はシュメール語の資料などで知られていたのですが、1964年からのイタリアの発掘調査によってTell Mardikhが古代のエブラであることが判明。1975年には文書庫から大量の楔形文字の粘土板が発掘され、大きな注目を浴びました。旧約聖書の「創世記」につながる言葉も記され、ここにアブラハムが一時居留していたかもなど、憶測されています。

↓エブラ遺跡の丘

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↓文書庫は雨などを防ぐためカバーで覆われています。

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エブラがヒッタイトの王により破壊されたのはBC1650年から1600年とされ、その時の焼き討ちで粘土板が焼かれたため強固になり、良好な状態での発見につながったそうです。

↓遺跡の石も焼かれた跡が黒く残っていました。

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 次はまた南下しハマーの町に入りました。ハマーに来るまでは大水車の回るのどかな町としか知らなかった無知な私でした。1982年アサド政権(現在のアサド大統領の父)のもとで蜂起したムスリム同胞団の鎮圧を目的とした焦土作戦で多くの一般市民が巻き添えになった「ハマーの虐殺」のあったところだったのです。古都として知られていた歴史あるハマーの町は大部分失われたと聞きました。怨念は残らないものかな~と気がかりだったのですが、まさかこの訪問時から十年少しで、ここを反政府軍の拠点とした「シリア内戦」が始まるとは・・・。

↓オロンテス河畔の4つの水車のあるテラス・レストランFour Noviaで昼食をとりました。

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ハマーではどこも観光せずに食後はまたバスに乗り、十字軍の砦、イスラム時代は要塞として使われたクラック・デュ・シュバリエへ。

★クラック・デュ・シュバリエ(カラート・アル・ホスン)はシリアの世界遺産(2006年登録)です。1142年から1171年まで、十字軍の聖ヨハネ騎士団の拠点として、ホムスの西40Kの標高650Mの峰に築城。1271年にマルムーク朝の王の計略にはまり、城を明け渡してしまいました。その後礼拝堂はモスクに変えられ、対十字軍の前線基地として使われました。十字軍撤退後はマルムーク朝の副王の居城となり、20世紀になってフランスの文化財保護の関係者が訪れた時は農民500人が住みついていたそうです。それらを移住させ本格的に修復。歴史的にも重要なロマネスク様式の名城として知られています。

↓南方向上空より(Google earth)

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↓教会はゴシック様式です

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↓内部の見学が済み、城壁の周りを散策しました。

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 この日はホムスのサフィールホテルに1泊しました。一人旅の女性3人が同じ番号の部屋というので、どうしたのかしら?とドアを開けてびっくり3部屋に分かれた個室と大きな食堂のスィートルームでした。3人でじゃんけんして負けたので、お姫様タイプの部屋を逃しました。私は侍女の部屋(笑)でしたが、それでも広い~。

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 夕食はホテル内のレストランで。旅もそろそろ終わりに近くなりました。食後もスィート組の3人は行き来が簡単なので、おしゃべり・・・あれこれ。


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1999春の旅(12)ホムス~バールベック(レバノン)~ダマスカス [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/25(日)

 ホムスは宿泊しただけで、観光なしでした。ホムスから国境を越えてレバノンに入国。ホムスからは100Kほど南西のバールベックを目指しました。途中けしの花の群生するところで、写真ストップ。私はバスで眠っていて、降りるのが億劫でパスしてしまいました。今になれば真面目に撮っておけば良かったと後悔しています。ベッカー高原を走りバールベックの到着。まずは併設された博物館で出土品を観て、これからの遺跡見学の予習をしました。

★バールベックBaalbek(古代名ヘリオポリスHeliopolis)  ベッカー高原の中央にある古代の宗教都市遺跡。ヘレニズム期の建築の代表であるジュピター神殿、前門、六角形の前庭、大庭園は1世紀中ごろに建設が始り250年頃完成。バッカス神殿は150年ごろに建設されました。最後にヴィーナス神殿がバロック的要素の色濃い様式で建てられ、巨大で優美な神殿群はローマ帝国の聖地として、現在でも世界有数の遺跡です。1984年世界遺産に登録。

↓バールベック博物館

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↓そして遺跡へ。入口付近の列柱。

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↓ジュピター神殿は1759年の大地震によりかなり崩壊。残った6本の巨大な柱から、広壮な神殿の姿が偲ばれます。

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↓バッカス神殿

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↓礼拝堂

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↓バールベックから眺めたレバノン山脈

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 ランチは遺跡近くの由緒あるパルミラホテルのレストランで。リラの花が咲いていました。

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 伝統のある古いホテルでの食事でした。最盛期はどんな雰囲気だったのでしょうか。サービス係のシニアの男性たちの心のこもったお給仕で、気持ちよく、美味しくいただきました。中東料理と言えばレバノン料理ですから、ようやく本場の味です。多彩な前菜やチキンカレーに舌鼓。

 そして2時間ほどかけて、国境を越えダマスカスへ。ダマスカスが最後の訪問地です。シャームパレスホテルに1泊しました。夕食はホテル内の中華レストランで、久々のアジアン・フード。今回の旅行中に誕生日を迎えられた5人の参加者さんのお祝いで、賑やかでした。

↓ホテルの部屋

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1999春(13&14.15)ダマスカス~帰国 [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/26(月)

  旅の最後の日になりました。夜中の飛行機で出発しますので、ほぼ丸一日ダマスカスの観光です。バスでカシオン山に登り、街の眺望。ここカシオン山は旧約聖書の創世記のなかで、カインがアベルを殺した場所(人類最初の殺人と言われる)として知られています。

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 カシオン山の麓には前のアサド大統領の要塞のような官邸が建っていて、説明に寄りますと滞在しているかどうかは秘密になっているそうです。

★ダマスカス/古代都市ダマスカスは4000年以上の歴史を持ち、アッシリア、バビロニア、ペルシア、ローマ帝国の支配下にありましたが、7世紀にイスラム教のウマイヤ王朝の首都になり繁栄。旧市街を囲む城壁は1世紀にローマ時代に建設されたのですが、その後幾度も改築されています。旧市街は迷路のような狭い道が続き、ウマイヤドモスク、アゼム宮殿、スークなどがあり、徒歩で観光できます。

 そして新市街のダマスカス国立博物館へ。旧市街西側に建つ博物館は、入り口前の広い庭園に石像や列柱などが配された堂々たる構え。ここでは久しぶりに日本人の観光客とすれ違い、私のツアーの男性が挨拶して「どちらからいらっしゃったのですか?」となにげなく尋ねましたら、いきなり相手のシニアの男性が怒り出して、びっくり!別に住所を聴いたわけでもなく、東京とか北海道とか言えば済む話ではありませんか・・・。ああいう人と一緒のツアーでなくて良かったわ~。

★ダマスカス国立博物館/紀元前500年以降のヘレニズム、ローマ、ビザンティン、イスラム各時代の作品を展示。代表的な蒐集品にウガリトの出土品、ドゥーラ・エウロポス出土の「シナゴーク壁画」、同地出土の「コノーンの供犠図」、パルミラ出土の「ヤルハイの墓」など。

始めはガイドさんについて、シナゴーク壁画など観て回っていましたが、膨大な円筒印章や粘土板の部屋ではぐれてしまいました。でも探す時間も惜しくなるほどのコレクションですから、勝手に鑑賞することにしました。記憶も薄れ資料(絵葉書が行方不明)もほとんどないのですが、参考書のアンドレ・パロ著『シュメール』から

↓マリ出土「大歌手ウル・ニナ」BC3000年前半(右は後姿)

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↓ドゥーラ・エウロポス出土の「シナゴーク壁画」(部分)Netから拝借。「出エジプト記」のモーゼがナイル川から拾われる場面

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 一番印象に残ったのはウガリトからの出土品で頭は獅子、体は鷲の小さな置物(墓の副葬品?)でした。前年ロマネスクの旅で見かけた柱頭彫刻にそっくりだったのです。パルミラ・ベル神殿のロゼッタ模様の天井といい、オリエントからヨーロッパのロマネスク美術に与えた影響はエミール・マールが「我々がフランス全土を遍歴してロマネスク教会のひとつひとつの前に立つとき、我々はただちに、その図像、その秘儀的要素、その比喩の中にオリエントを見出して驚かないだろうか。かって東方の博士たちが幼児イエスになしたように、キリスト教に贈り物を贈ったのは、全アジアである」と書かれています。

 さて時間になり館外へ、入り口周辺に皆さんの姿・・・「すみません~!」と駆け寄ると、「誰も心配していませんでしたよ。あなたは慣れていらっしゃるから」って(汗)。またバスに乗り旧市街へ。

↓旧市街の通り

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↓水売りの道具。いくら暑くても買いません(笑)

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↓ケバブ屋さん

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↓街角風景

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↓ミナレットが見えました。ウマイヤドモスクへ。

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★ウマイヤドモスク(大モスク)/ローマ時代の神殿~キリスト教会堂の建てられた場所に8世紀初めに建設。中庭を囲んで礼拝堂と回廊があり、壁面はビザンティン風のモザイクで飾られています。

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 ↓大モスクに入るには、女性は茶色のチャドル風コートを着用しなければなりません。暑いうえに汗臭くて閉口しました。

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↓礼拝堂はビザンティン宮殿建築に倣ったもの

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↓イスラムの預言者でもある洗礼者ヨハネの首が収められている祠が堂内にあります。西欧人もお参りしていました。

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↓モスクの周辺も散策

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↓ ランチはモスク近くのウマイヤド・パレスレストランにて。レストランの前の通り。

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 食後はアゼム宮殿へ。オスマントルコ時代の領主の館で、現在は民族資料博物館になっています。

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↓ダマスカスは絹織物の産地。工芸が盛んでした。

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↓キリム屋さん

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↓街角風景

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↓聖アナニア教会へ

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↓聖アナニアの地下教会には聖パウロが回心した様子の描かれた板絵が飾られていました。写真禁止。

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↓聖パウロ教会はバスの中から、ちら見だけ。

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 この後はスークで自由時間でしたが、何も買うものがなくぶらぶらしただけ。

↓ダマスカスのスーク。アレッポに比べるとやはり現代の市場風。

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 夕方になりホテルに戻りました。夕食はホテルの最上階の回転展望レストランで。旅の最後の晩餐を楽しみ、10時過ぎにダマスカス空港へ。アレッポで購入したオリーブ石鹸が重く、重量制限ギリギリ(当時は30K)で、パス。真夜中の1時頃KLMにて空路オランダへ。

4/27(火)→アムステルダム5:45/13:00→

 早朝にスキポール空港に到着しました。乗り換えの時間を利用して、希望者だけ添乗員さんと空港駅から列車でユトレヒトへ。運河の流れる静かな街並みを散策。行きたかった美術館は遠いとのことで諦め、お茶したりのんびりしました。午後のKLMで帰国の途へ。

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4/28(水)→千歳6:30到着。道内組5人は飛行機を降り、他の方たちは名古屋まで。空港からバスで帰宅しました。旧宅は国道36号線に近く、空港バスを利用することが多かったです。

 17年前の旅のうえにツアーでしたから、地理や遺跡や出土品の記憶もあいまいで、Google earthや検索、ブログのお仲間の旅日記も参考させていただき、なんとか終わらせることができました。いつものお気楽な旅日記と言いたいところですが、シリア内戦やISイスラム国の台頭などがあり、貴重な遺跡の存在自体が危ぶまれています。Google earthでパルミラのベル神殿が跡形もなく破壊されている画像には涙を禁じえませんでした。いえ、それ以上にシリアの人々の失われた多くの命に、難民の方たちの苦難に、せめて心だけ沿わせたいと思います。シリアに一日も早く平和が訪れますように(終)。


タグ:ダマスカス
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1999夏(1)札幌~ミラノ [1999夏北伊と南仏オペラ仲間との旅]

 昨年の春のオペラツアー続いて、今年もリーダーのO先生の発案で、夏のラヴァンナ、エクサンプロヴァンス、オランジュと 3つの音楽祭にミラノ・スカラ座を加え、計6公演を鑑賞する旅に出かけることになりました。月1回のオペラ例会とイタリア語の勉強にも熱が入り、出発まで待ち遠しい日々でした。

また、昨春から社会人になった次女は夏にまとまった休暇が取れるとのことで、グループの皆さんより一歩早く母娘で出発。ラヴェンナでグループと合流後、次女は別れて一人旅でイタリアを回ることになりました。

スケジュールはミラノ(1)→ヴェネチア(2)→パドヴァ(1)→ラヴェンナ(2)→エクサンプロヴァンス(3)→オランジュ(1)→ミラノ(3)の13泊15日です。

MAP


7/4 札幌→成田→ミラノ(AZ)   ミラノ/ピエール・ミラノホテル1泊

 スーツケースは重いので、再びミラノに戻って来るまで空港構内の荷物預け所に預け、小型のキャリーバックとガーナメントバックだけで10泊の予定なのです。

 ミラノは1泊だけなので、サンタンブロージョ教会を見学することを目的に近くのホテルを選びました。4☆の高級ビジネスホテル。大型のホテルではないので、こじんまりとして上品、暖かな雰囲気。部屋はやや狭かった記憶がありますが、クラシックなインテリアは素敵でした。チェックイン後、次女と早速夕食へ。テラス席に座ったころはまだ明るかったので、気が付かなかったのですが・・・そのうち日暮れになり、蚊が外の電気に飛んできて群がっているのに気付いたときはすでに遅く、ジーンズの次女は無事でしたが、薄手のロングスカートの私は両脚を30カ所以上も刺されてしまいました(泣)。ミラノは運河があるので、蚊も発生しやすいと聞いたのは後のこと。それにしても私だけがこんなに刺されたなんて・・・イタリア語で「sangue dolce甘い血」というそうです。夜中に痒くて目が覚めました。日本の虫刺され用のかゆみ止めは効きません。春の中東下痢騒ぎのときのように、現地の薬を調達しなければ・・・。ミラノに着いた早々ついてません。ところが翌日もさらに悪いことが待っていたのです。


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1999夏(2)ミラノ~ヴェネツィア [1999夏北伊と南仏オペラ仲間との旅]

7/5

 イタリアの盛夏に旅をしたのはこの時が初めてでした。北海道の夏とは違って太陽もぎらぎらと照りつけ、睡眠不足の目には眩しい朝です。ホテルから徒歩数分のサン・タンブロージョ教会へ。

↓サンタンブロージョの門で。

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人間が独り入るくらいの大きな篭がぶら下がっていました。あれは罪人をみせしめにぶら下げるものなのか?異端審問なんかに使われたのかしら?再訪した時にはもうありませんでした。

↓門の反対側から

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↓サン・タンブロージョ教会正面は改修中

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★サン・タンブロージョ教会Basilica di Sant'Ambrogio/初期キリスト教時代の4世紀末にミラノの司教聖アンブロシウスによって創建。9世紀に改築され、11~12世紀には内陣、南塔、ファサード彫刻の大部分を残して大改修。アトリウム、ナルテックス、北塔を加え、広壮なロマネスク聖堂になりました。3度目のミラノで、念願の初訪問でした。舞い上がっていたのでしょうか、写真はほとんどありませんので、下の3枚はこの時教会内で求めてきた絵葉書です。

↓教会前面に設えられたアトリウムの柱頭彫刻(11~12C)。右側の2天使が捧げ持つ輪は「運命の車輪」?

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内部は三廊式(トリビューンつき側廊を持つ)で、交差リブヴォールトで覆われています。

↓内陣のキボリウムと黄金の祭壇(9C)。

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↓側廊右手から奥にサン・ヴィットーレ・イン・チェル・ドーロ礼拝堂(4世紀、1930改修)があり、クーポラの黄金に輝くモザイク(5世紀)が素晴らしい~。

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 見どころ満載のサン・タンブロージョ教会は一度の見学では無理です。再訪もあるでしょうとホテルに戻り、預けた荷物をピックアップして、中央駅へ。駅構内の両替所で日本円で2万円をユーロに変えて、お財布をポンとショルダーバックに入れてホームへ。そのとき周りに人が集まった感じがして、「ずいぶん混むわね」と言った記憶があります。そして、次女とヴェネツィア行の列車に乗り込みました。しばらくして、コーヒーが飲みたくなったので独りで食堂車へ行きお勘定しようとして、バックに財布がないことに気がつきました。「お財布忘れたから、後から持ってくるわ」と言ってあわてて座席に戻り、手提げやキャーリーバックを探したのですが、ありません。「やられました~!」近くにアメリカから来られたご夫婦(ご主人は黒い帽子、服、顎鬚のスタイル、ユダヤ教の師?)が座っていて、彼らも被害に・・・。まだ携帯電話もないころですから、自宅やカード会社に連絡もできません。そうこうしているうちにヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に着きました。早速駅構内のポリスの事務所に行ってみたのですが、英語の分かるポリスは明日にならないと、出てこないから被害届を書けないというのですユダヤ人ご夫婦の怒ること!イタリア人は全く働かない奴等だとか言ってました。私たちもあきらめて水上タクシーでホテルへ。ヴェニスのホテルは大運河に面したホテル・メトロポール、2泊しました。

↓2階の部屋からサン・ジョルジョ島の眺め。

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↓ホテルは遊覧船やボートの船着き場に近く、遅くまで人の声がしましたが、素敵な内装。

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夕方近くを散策し、疲れたのでホテルに戻って休憩。夕食もホテルのレストランで早めに済ませました。裏庭で食べたので、また蚊がやってきたらと恐怖で、暗くなる前に退散したのです。かゆみも少しは治まったと思ったのですが、夜中になってまた痒く腫れもひどくなり、おまけに熱もでてきたのです。。。


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