1992春の旅(1.2)札幌~成田~パリ [1992春エジプトの旅]
3/9 札幌→成田 3/10成田12:50→パリ17:35
長女はあまり海外に興味を持たず、誘っても乗ってきませんでしたから、次女とふたりで出かけることが多かったのです。この年は4月から大学3年になります。本格的に就職活動に入る前に、「どこか連れて行ってやりなさい」という夫の鶴の一声?に便乗。長女に行きたいところを選ばせました。それが思いがけずエジプトだったのです。本人は古代エジプトに興味があったわけでもなさそうですが、そこは親子の血?単純です。エキゾチックな国に行ってみたかっただけ~とのこと。早速昨年利用したW航空サービスのパンフレットを検討し、3月の春休みに行くことになりました。カイロからバスでナイル川に沿って南下しアスワンまで。そして飛行機でカイロに戻るコースでした。
↓MAP
ガイドブックや参考本などを読むうちにエジプトの歴史や美術に興味がわいてきました。そのうえエジプトの帰途はツアーから離れ、母娘でパリに5延泊の美術館三昧をすることになり、旅への期待は高まるばかり。
札幌からは成田とパリ経由でカイロに飛びました。成田で前泊(成田ビューホテル)して空港でツアーのお仲間と顔合わせ。娘にはW社はシニアのお客さんが多いから覚悟してと、言い含めていたのですが、嬉しい誤算でした。大学の卒業旅行の男性二人に娘と同じ年の大学生のお嬢さんひとり。しかも!皆さん札幌出身または在住の方たちでした。娘は初の海外旅行ですから、成田のホテルで胃が痛いなどと不安そうでしたが、若い方たちが旅仲間とあって急に元気になりました(笑)。
昨年と違って、モスクワにも寄港せず、夕方にはパリに到着。この1年で海外の旅は一段と便利になっていました。エッフェル塔の近くのフランツール・スフランホテルに1泊しました。機内食もまだましな頃でしたから、食べすぎてお腹も減らず、外出もしないで早めに就寝しました。
1992春の旅(3)パリ~カイロ [1992春エジプトの旅]
3/11 パリ16:20→カイロ21:50(AF)
カイロ/ヒルトンホテル1泊
3月のパリはまだ寒いものの、雪がまだまだ残る札幌からやってきた身には、春用のコートだけで済むのがうれしかったです。これが初めてのパリでした。ホテルを出ると目の前にエッフェル塔が立っていて、それだけで感激(笑)
↓ ホテルの前で
パリ市内観光にでかけましたが、今回はエジプトへの旅の予習というわけで、まずはコンコルド広場のオベリスクを↓説明(ほとんど忘れましたので、Wikipediaより)を聞きながら見学。
<ルクソールから運ばれた別名クレオパトラの針と呼ばれるオベリスクは広場の中央に立てられており、ラムセス2世の治世を褒め称えるヒエログリフが刻まれている。元々はルクソール神殿の入口に対で立っていた(残る1本はまだそのまま立っている)。この場所は1793年にルイ16世とマリー・アントワネットがギロチンで処刑された場所である。1833年当時の技術レベルでは輸送は困難を極めた。台座には輸送の際にどのような機械を使ったかを説明する図がある。赤い花崗岩でできており、台座を含めて高さは23メートル、重さは250トン以上である。先端部分は紀元前6世紀ごろ盗まれたとされており、1998年にフランス政府が金箔を施したキャップを先端に追加した。オベリスクを立てた際にそれを挟むように2つの噴水も建設された>
続いてルーヴル美術館へ。☆ルーヴル美術館(初)
↓ガラスのピラミッドの前で。左に見えるリシュリー翼は工事中でした。
ルーブルのエジプトセクションでは小さめのスフインクスや書記の像などを見学。ほかはエジプトセクションへの通り道だったミロのビーナスやサモトラのニケなど。このニケ像のある大階段室にはイタリア絵画のコーナーへの案内板があり、そちらも気になりましたが、エジプトの帰りに寄れるのだからと自分に言い聞かせつつ・・・。
この後、エジプトとは関係ありませんがノートルダム寺院にも行きました。広場の花壇がフランス風庭園で、菫が咲いていて、内部もバラ窓も豪華で美しかったです。午前中だけでこれだけのスケジュールをこなすのですから、さすがにツアーは効率が良いです。
ランチをルーブル近くのレストランで。店先に牡蠣など並べた大きな店でした。初めて殻つきのエスカルゴをいただきました。映画の「プリティ・ウーマン」
のシーンを思い出して、殻を飛ばさないように気を付けて、バジルとにんにく
の風味が効いていて、とても美味しかったです。
夕方の便でカイロに飛びました。途中アルプス山脈を越えたとき、丁度日没でしたので、雪山がサーモンピンクに染まって、それは綺麗でした。TVアニメ「アルプスの少女ハイジ」で育った娘はいたく感激(笑)
カイロ空港に到着。ターミナル内は旅行客ばかりではない雑多な人々でごった返していました。がっちり、バックを抱えながら両替。でてきたお札の汚さにびっくり。ツアーバスへ。ホテルに着いた頃はすでに真夜中でしたが、子供を含め外でボール遊びやたむろする男性たちの姿。。。ラマダンの季節だったのです。コーランをスピーカーで流しているので余計に騒々しい。この後も毎夜、この騒音に悩まされることになりました。
ホテルの部屋は広くてパリの5倍はありそうでした。
1992春の旅(4)カイロ~エル・ミニア [1992春エジプトの旅]
3/12 カイロ→エル・ミニア
早速午前中はカイロ郊外のギザのピラミッド群の見学をしました。事前に観ていた写真で、ピラミッドは砂漠のど真ん中にあると思いこんでいましたが、実際はカイロの街並みが途絶えてすぐのところに3基並んでいます。朝は風も無く静かだったのですが、見学中は一時砂嵐が吹き荒れ、話したり、笑ったりすると口の中まで砂が入るありさまでした。マスクぐらいでは効き目がなくタオルを口に当てて砂をガード。
一番大きなピラミッド(クフ王)の入口(↑写真左上)から中に入り見学しました。狭く息苦しい階段を上って、ピラミッドの中間地点?にある部屋へ。このスペースには石棺がひとつ置かれているだけ。墓泥棒が荒らした後なのです。しかし、いろいろな伝説に包まれたピラミッドのミスティリアスな気分には浸れました。
砂嵐も収まり ↓写真の駱駝にも乗ってみました。駱駝が立ち上がったり座ったりするときに前のめりになるので、頭から落下しそうで、怖かったです。
付近にはがりがりに痩せ、ハエのたかった野良犬がいたり、働きたくない(きっと病気)が鞭打たれたりして、悲しげになく駱駝の姿。
↓ 怖がる長女たち
そしてピラミットから少し離れた鼻のかけた大きなスフインクスの見学をしていると、小さな子供たち(小学低学年くらい)が寄ってきました。放課後遊んでいるらしかったのですが、少し大きな子がぶらさげている人形にみえたのが近くでよく見ると赤ん坊だったのです。発育不全なのか痩せておむつもしていない赤ちゃんが不憫で涙が出そうになりました。娘は私が絶句しているのをすばやく見つけて、「見ないで!お母さんあっちへ行こう」と引っ張って行ってくれました。旅は楽しい思い出ばかりではありません。。。
↓ ギザのスフィンクス(カフラー王)
↓サッカラの階段ピラミッド(ジョゼル王)。一番古いピラミッドで、伝説の建築家イムへテプが設計したいわれています。
この後はパピルス工場で買い物をしたり、階段ピラミッドや周辺の遺跡などを巡り、
メンフィスでは↓ラムセス2世の巨像や小さなスフインクスを見学してバスは一路ミニアへ向かいました。
エル・ミニアの町に到着したのはもう夜も遅く、暗くなっていました。初めに泊まる予定だったホテルが変わったとかで、運転手さんも添乗員さんも現地ガイドさんもそのホテルの場所が分からない様子です。町の広場にバスを止めて3人とも「イブンカシブホテル」(名前は正確でないかも)を探しにいってしまいました。そうすると遠巻きに見ていた町の男たちが近づいてきて、ボールペン欲しいとか言ってバスに乗り込もうとするのです。異様な雰囲気(遠方からの観光客を歓迎しているだけではないなにか)を感じ取って皆がざわざわとしたところに、ようやく3人が戻ってきました。
そのホテルはすぐ近くだったのですが、暗い街灯もない道の奥にありました。着いてみるとホテルの前に兵隊さんたちが十人ほど警護中でした。このホテルの経営者がクリスチャンだからと説明されたのですが、当時私たち日本人にはテロの危機がすぐそこに迫っていたことなど露程も知らされていない頃でしたから「はぁ~?」無知とは恐ろしい。。。
部屋は娘と一緒なのでツインだったのですが、バスタブはなく、シャワーのお湯は一人分しか出ません。外はコーランがスピーカーで流され、ドアの外のホールにはエジプト人のおじさんが、朝まで見張り番をしているという、今思えば異様な感じでした。同行の大学卒業旅行の男性二人が町に散歩に出ましたが、すぐに戻ってきて「この町はやばいよ」と・・・外国人に対する敵意を感じたのでしょう。これも帰国後の報道で知ったのですが、エル・ミニアはエジプトでもイスラム原理主義が浸透し、テロ騒動の激しいところだったのです。
しかし、その時は多少の違和感を感じても、なんの恐怖感もなく、朝シャンができないね~とこぼしながら寝てしまう平和ボケの母娘でした。
1992春の旅(5)エル・ミニア~アシュート [1992春エジプトの旅]
3/13 エル・ミニア~アシュート
↓出発前にホテルの前で。右に写っているのが警護の兵隊さん。外国人の観光客のために駆り出されたからでしょうか、みんな不機嫌でにこりともしてくれませんでした。
このイブンカシブホテルの経営者は物静かな白人系の男性で、欧米人のガイドも兼ねていましたが、その後ホテルは続けているのかどうか・・・不明です。
↓エル・ミニアの街角で。ようやく砂漠の埃っぽい空気に慣れてきました。
午前中はナイル川をボートで東側に渡り、ベニ・ハッサンの岩窟墳墓群の見学をしました。
ナイル川の両岸は緑のゾーンがあり、畑などもみえます。でもすぐ向こうは砂漠地帯が広がっています。
↓ 小さなフェリーを降り、徒歩でベニハッサンヘ。
↓ 丘の上からナイル川の眺め
↓岩窟墳墓群の前で
内部は壁画が残っていたはずですが、暗かったため?写真がありません。
午後からはフェリーとトラクターに乗って、テル・エル・アマルナの遺跡へ。ここはエジプト美術の中ではとても特色のある興味深いアマルナ美術の生まれた場所です。古代エジプトの歴代のファラオのなかで、異端の王といわれるイクナトンの時代は今までの多神教からアテンを崇める一神教の時代だったのです。壁画や彫像も写実的で、かつユニークです。妃であったネフェルテティのかの有名な胸像(現在はベルリンの博物館)も、この遺跡から発見されたそうです。
フェリーから降りると子供たちがお出迎えと思ったら「バクシーシ」の大攻勢。トラクターで移動する私たちを追いかけて走ってついてきます。最後まで付きまとわれて、さすがにうんざりでした。
↓テル・エル・アマルナの壁画の前で
バスで南下して、夕方アシュートに着きました。
↓途中の車窓風景
アシュートでは駅の近くの「バトルホテル」(怖い名前!)に宿泊。夕食の後まだ、明るかったので独りで散歩がてら駅まで行ってみようと歩いていましたら、TAXIが停まり乗りなさい(言葉は分からないけれど多分)と運転手さん。でも、近いし断ったのですが、後ろにはすでにお客さんが乗っていたので?そして、駅への踏切を渡ろうとしたら、卒業旅行の男子たちにばったり。彼らの言うにはここもかなり危ない雰囲気だそう。でも、駅を見たがる私についてきてくれました。構内には時刻表など貼ってありましたが、すべてアラビア語なので個人旅行は難しいな~と駅からでてみますと、大勢の男たちに周りを囲まれそうになって、ヤバイ~。するとこの男子たちが少しもひるまず強い口調で「通せよ~!」とか怒鳴ってくれて、宿に無事帰れました。札幌出身のお二人さんには感謝しつつ、無防備だった自分が今思い出しても恥ずかしいです。
夜中には近くを走る汽車の音や人の声が騒々しく、何度か目覚めました。
1992春の旅(6)アシュート~ルクソール [1992春エジプトの旅]
3/14
アシュートから南下してルクソールまで。途中、古代エジプトの遺跡で有名なアビドスとデンデラに寄りました。
↓ バスの車窓から。鳩小屋を屋上に持つ民家と動物市場?
アシュートからアビドスまで140Kくらい。アビドスは古代エジプトのオシリス神信仰の中心地です。現存する主な遺構はセティ一世(ラムセス二世の父)の神殿、ラムセス二世の神殿など。中でも圧巻なのがセティ一世の神殿内のレリーフです。アモン、オシリス、イシス、ホルス、レー=ハラクティ、プタハ、そして神格化されたセティ一世の7つの神に捧げられました。壁面を埋める神々と王の交流をテーマにする浮彫は一部鮮やかな色彩も残り、優雅で気品あふれるものです。
↓セティ一世の葬祭殿
↓ 至聖所
↓ その他の壁レリーフ
↓ イシス(またはハトホル?)女神のレリーフ(日輪と牛の角を戴く)
↓ 王命表のレリーフが残されています(1~19王朝)。でも正確ではなさそうで、18王朝のアケナトン王や早死にしたツタンカーメン王の名前はありません。
↓
さて、次に向かったのはアビドスから80k南下したデンデラです。ここは古代エジプトが最も繁栄したころの上エジプトの都で、ハトホル女神崇拝の中心地でした。現存するハトホル神殿はプトレマイオス朝/ローマ時代のもの。屋上のオシリス神聖堂の天井のゾディアックはルーブルで見学済みでした。
↓ 北門(ローマ時代)
↓神殿の壁に残るクレオパトラ(左)の浮彫
↓ 神殿の大列柱室と天井
↓ 地下室にはデンデラの電球と呼ばれるレリーフなど。
↓ 神殿の外壁のレリーフは繊細な彫で美しい。
↓泥煉瓦の周壁と東門。周辺はコプト教会も含まれた複合遺跡。
ふたつの素晴らしい古代エジプトの遺跡に感動でした。またバスに乗りルクソールへ。古代エジプトのテーベと呼ばれた都は今は喧噪の町。ラマダンの時期でしたので、特に夜が賑やかに活気づきます。
ホテル内のレストランで夕食を済ませた後は、夜のバザールへ。ホテルの前から馬車に乗って、ショッピング中は待っててもらいました。でも・・・乗る前に料金を往復で決めたはずなのに、やはりというべきか?帰って支払う時に片道と言うのでもめました。買い物も半額になるまで交渉するのが普通とのこと…値切るのに慣れてないので疲れました。イシスホテル2泊。
1992春の旅(7)ルクソール [1992春エジプトの旅]
3/15
↓ナイル川岸に建つデラックスなホテル。朝、部屋のバルコニーからの眺め。対岸は王家の谷のある西岸です。
この日は午前中に王家の谷の見学へ。
フェリーで対岸に渡りました。ホテルのある東岸にはルクソール神殿が見えました。古代エジプトではナイル川を挟んで西側が死者の街(ネクロポリス)、東岸が生者の街と分けられていました。
↓ かなり崩れていますが、ペアの巨像は「メナムの双像」
朝晩は涼しいのですが、さすがにエジプトの南部にくると昼間はかなり暑くなってきました。巨像のところからは徒歩だったのか?記憶にありませんが、この後はハトシェプスト神殿の見学をしました。
ハトシェプストは第18王朝の女王。国王は男という伝統に反して即位し、王の付髷までつけた像も残っています。戦いよりも貿易を振興し、このデイル・エル・バハリにテラス式の壮大な葬祭殿を建てました。女王の没後、女婿のトトメス3世は記念物から女王の名前を削り像を破壊し、歴史から抹殺しようとしましたが、ここから出土した女王の像は優雅な女性らしさがあり、カイロやニューヨークの美術館に収蔵されています。
↓ 神殿の回廊には色彩の保存の良い素晴らしい浮彫が残されています。
ここではこの5年後1997年にテロ事件があり、観光客が多数犠牲になりました。1992年の春でもイスラム原理教のテロが蠢き始めていたのです。。。
↓ 王家の谷の入り口付近にて
王家の谷には新王国時代の王たちの墓が60以上も発掘されています。そのうちのいくつかを見学しましたが、カメラ禁止なので、写真は残っていません。盗掘に遭わなかったツタンカーメンの墓だけは観たかったのですが、前年から入れなくなっていました。見物客の汗と湿気で、カビが生え傷むからとのことでした。
午後からはナイルの東岸に戻り、ハト料理の昼食をとり、馬車に乗ってルクソール神殿とカルナック神殿の見学をしました。
ルクソール神殿は18王朝のアメンホテプ3世によって大部分が建設され、ナイル川に平行して南北軸になっています。
↓ルクソール神殿の第一塔門。ピラミッドとラムセス2世の像。
ラムセス2世の中庭~第二塔門~大列柱廊などと続きます。写真を撮りましたが、何処の列柱室かわからなくなってしまいました。このころはフィルムのカメラで、ネガも残っていませんので、撮影時の順番が不明なのです。
↓ ラムセス2世の中庭。ラムセス2世と足元の小さい像は妃。
↓アメンへテプ3世の大列柱廊を望む中庭で。若者4人組。
↓ カルナック神殿へ通じる参道のスフインクス。
カルナック神殿はナイル川に直角に建てられた巨大な複合施設ですが、中心はアメン神に捧げられたアメン大神殿です。なかでも20M級の柱が134本並ぶ大多柱室は圧巻です。ハリウッド映画「インディ・ジョーンズ」のロケに使われ、ますます有名になりました。
↓ 大多柱室。足もとのほうが太いパピルス柱頭の石柱。
↓ 大多柱室から2本のオベリスクが見えます。右がトトメス1世、左がハトシェプスト女王のオベリスク。
夜はルクソール神殿でのライトアップショーがありました。音楽と光のショーと軽く参加したのですが、セリフが長いうえ立ちっぱなしで、疲れ果ててしまいました。この疲労がたたって、翌日の夜から大変な目に遭うことになったのです。
ルクソールではいろいろお買い物をしました。ガラスのエジプト風香水瓶、香辛料、トルコ石(偽物?安かった)の指輪など。
1992春の旅(8)ルクソール~アスワン [1992春エジプトの旅]
3/16 ルクソールからアスワンまでの途中、エドフとコムオンボに寄り観光しました。
ルクソールから南へ約110Kのエドフはナイル川の西岸の町。古代の上エジプトの首都でした。ホルス神に捧げられた神殿で知られています。現在のホルス神殿はプトレマイオス朝時代に改築したもので、エジプトの伝統的な神殿建築様式をほぼ完全に保存された貴重な神殿です。ローマの支配時代にキリスト教が公認された後、この異教とされる神殿は閉鎖され、砂漠の砂12Mの下に埋もれていました。壁面の浮彫には宗教儀式図、ホルス神話など学術的な資料としても価値が高いものです。
↓ ホルス神殿入口の塔門
↓ ホルス神(鷹の姿)の像
↓ホルス神は国王の守護神でもあり、下の像は祭事に使われたものと思われます。その時の説明はまったく覚えていません。
次はエドフから約60Kほどのコム・オンボの観光をしました。ソベク神(鰐の頭を持つ人間像)を崇拝する中心地でした。実際に鰐を飼育し、ミイラもつくられ、祀られました。
↓ ナイル川から子供の鰐をここで捕獲したという遺跡
↓鰐のミイラ
南へ40K走り、ナイル川の東岸の一大観光都市アスワンに到着。ナイル川の急流(カタラクト)の北端に位置。古代エジプト王国の南の国境の町として軍事、政治、商業の中心として栄えたところです。
アスワンの宿はアガサ・クリスティが「ナイル川殺人事件」を執筆したことで、有名になったカタラクト・ホテルです。ただし、ツーリスト専用のような隣接の味気ないビル、ニューカタラクト・ホテルでした。ナイル川の眺望できる部屋は抽選になり、見事に外れ裏の民家ビュー。ツアーのなかに新婚さんが一組いて、そのカップルにナイル川ビューがあたったので、良かったです。
↓ こちらがオールドカタラクト・ホテルです。ロビーやテラスは自由に出入りできました。画像はGoogle Earthから拝借。
↓ ナイル川の舟遊びはフルーカと呼ばれる帆船で。
↓ どこからか子供の歌う声が聞こえて、5,6歳くらいの男の子が小さなボート(木の桶のような)に乗って近づいてきました。「可愛い!観光客にサービスね」と思ったら、新型のバクシーシなのでした。ボートは水が染み込んで、下半身を寒そうに震わせています。基本的にバクシーシには応じないように言われていましたが、かわいそう・・・。ツアーの皆さんと歌も歌ってくれたことですしと寄付。「早く家にお帰り~」。
エジプトに来てから夕食はほとんどホテル内のブッフェ形式でした。生野菜は衛生上問題があるとのことで、口にはしないように気を付けていたのですが、この夜から下痢が始まり、一睡もできませんでした。
1992春の旅(9&10)アスワン&アスワン~カイロ [1992春エジプトの旅]
3/17
この日は昨夜から続いた下痢のため、まったくベットから起き上がれなくなりました。おまけに発熱という最悪の状態です。ついに今日の観光はパスして部屋で休養することになりました。もともと10代に虫垂炎から腹膜炎をおこし、20代後半には胆のう摘出手術を受けた病弱な身です。疲労と慣れない食べ物にやられてしまったのです。
実に残念でした。この日はエジプトツアーの中でも欠かせない貴重な遺跡のアブシンベル神殿だったからです。写真は長女が撮ってきてくれました。
↓ アブシンベル神殿。ラメセス2世がレ=ハラクティ、アモン、プタハ諸神と自分自身に捧げた大神殿と妃ネフェルタリのためにハトホル神に献じた小神殿があります。アスワン・ハイ・ダムの建造(1960~71)によって人造湖に水没する危険から、ユネスコが中心になって、安全地に解体、移動、再建されました。
↓フィラエ島のイシス神殿。
部屋の掃除に来たルームサービスの若い女性はヌビア人でした。アスワンから南のスーダンまで(上ヌビアと下ヌビア)居住している民族ですが、古代エジプト時代はエジプトの支配下にあったようです。エジプト関連の本に一番美しい黒人とありましたが、この女性のスタイル良さは抜群で、ついジロジロ見てしまいました。変なおばさんと思われたかも(苦笑)。ヌビアの一部もダムの人造湖に沈んだのですが、ユネスコが中心となり水没地域の遺跡の調査と保存工事が1960~70に実施されました。
この日は一日何も食べずにいましたが、夜になって添乗員さんがお粥をもってきてくれました。少しずついただいて異常がないので、ようやく安心しました。添乗員さんは若い男性でしたが、気が利く方で有難かったです。
3/18
熱も下がり、ぐっすり眠れました。朝食も消化の良いものを少しいただいて、アスワンを出発。同好の方に梅干をいただいたのですが、これが美味しくてお腹にもやさしいのが分かり、以後の旅は梅干を必ず持参することになりました。カイロまでは飛行機で戻りました。ホテルはエジプトに着いたときに泊まったラメシス・ヒルトンホテルでした。
カイロでは早速エジプト博物館へ。
↓ エジプト博物館前で。後ろの池に見える草はパピルスです。
↓ 一番人気はツタンカーメンの部屋。ミイラの納められた棺や黄金のマスク、副葬品など。
2時間くらいでは見きれないほどの収蔵品でした。まだ地下に眠っているものも膨大にあるそうです。途中トイレに入ったのですが、係員の女性か観光客かわかりませんが、いきなり床に小さな絨毯をひいて、お祈りを始めたのにはびっくりしました。
夕食はホテルの近くにある日本食のレストランですき焼き。白菜の代わりにキャベツが入ってました。レストランの女将さんは小池百合子さん(当時はTVのキャスター)の母上で、百合子さんにそっくりでした。
夜は部屋のバルコニーからカイロの町とナイル川の夜景を眺め「エジプトよ、さようなら~」