1997夏の旅(1&2)札幌~成田~ロンドン~ミュンヘン [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
お正月に隣家に住む義母が玄関前で滑って転び、背中を強打してしまいました。2年前に義父が亡くなってからは82歳まで頑張ってきたのですが、当分は長男の嫁である私が家事を手伝うことになりました。しばらくは旅行どころではなく、ストレスは溜まるばかりでしたが、夏に千葉の義姉が遊びがてら義母の世話に来てもらえることになりました。さてどこへ国外脱出しましょう・・・昨年から地元の新聞社主催のオペラ教室に入門し、東京の公演などにも出かけるようになっていましたから、今度はやはり本場で観たいとW社の「ザルツブルク音楽祭とヴェローナ野外オペラの旅」に参加することにしました。
行程は成田前泊→ミュンヘン(1)→ザルツブルク(3)→コルティナダンぺッツオ(1)→ヴェローナ(2)→ヴェネチア(2)の10泊12日です。
マップは↓
8/22
翌日のBAの出発に間に合わないので、夕刻成田着。成田日航ホテルにて前泊しました。
↓久しぶりの海外旅行を前に成田のホテルで。ようやくここまで来れましたとお疲れの表情(笑)
8/23
9時に成田第一ターミナルで集合。成田発11:00のブリテッシュ・エアウェイBAでロンドンヒースロー空港へ。ここでかなりの待ち時間がありましたので、ターミナルの売店で、この頃から流行ってきていたキャリーケース(機内持ち込用)をゲット。20:00発のルフトハンザLHでミュンヘンへ。マキシミリアン通りに面したケピンスキーホテルに1泊。高級ホテルですが、団体専用のような別棟があり、そこの1室へ。ところが冷蔵庫の下のカーペットがびちゃびちゃ…水漏れしていましたので、お部屋を替えてもらいました。ひどく疲れていましたので、このトラブルはかなりきつかった記憶があります。旅のお仲間は当たり前ですがオペラ愛好者がほとんどですから、入門したての私は話題に付いていけないこともあり、緊張もあったのでしょう。
1997夏の旅(3)ミュンヘン~ザルツブルク [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/24
この日の朝は雨模様。9:00の出発前にホテルのロビーで。
ザルツブルクへの途中、キムゼー湖に寄りました。↓ドイツからオーストリアに向かう車窓風景です。 バスに乗っている間に雨も上がり、湖に着くころは暑くなりました。
↓私たちはツアーバスですが、キムゼー湖の湖畔駅までは蒸気機関車も走っていました。乗りたくてウズウズしています。
湖畔からボートでヘレンキムゼー島へ。上陸した後は徒歩20分でルートヴィッヒ2世の建てた宮殿へ。
↓空撮(絵葉書)
↓緑濃い散歩道ですが、蚊に刺されてしまいました。さすがドイツ、殺虫剤とか使わないそうなので蚊がわんさか~!
庭園を巡ってから宮殿の見学をしました。ルートヴィッヒ2世はルイ14世を崇拝し、この宮殿もヴェルサイユを模した驚くほど豪華な内装です。ただ、ルートヴィッヒ2世の最後に建てた宮殿とあって、王の短い滞在や亡くなったときの状況などが思い起こされ、悲劇の序章を濃く感じさせる場所でした。
↓マイセンのシャンデリア
↓王の寝室の装飾。黒いボールは夜になると部屋を青く照らします。でも、このベットには9泊しかしなかったとか。
↓鏡の間
船着き場までの帰りは宮殿前から馬車に乗りました(有料)。ボートで湖畔に戻り、民芸調の可愛らしいレストランでランチ。ツアーのお仲間とそろっての食事は初めてでした。
そして国境を越えて、音楽祭で賑わうザルツブルクへ。ミラベル庭園近くのホテル・クラウンプラザにチェックイン。夕食まで部屋で休憩したのですが、ベットで横になっているうちにいつの間にか深い眠りに・・・添乗員さんの電話で起こされ、大慌てでレストランへ。よほど疲れて眠かったらしく、ほとんど食欲もないままでした。食後はミラベル宮殿に連れて行かれ、モーツアルトを聴いたのですが、早く終わってホテルに帰りたい~状態(汗)
ホテルの廊下で夜遅くに到着した日本人の声が・・・このころはバブル崩壊した後でしたが、かなりの日本人ツアーがザルツブルクに来ていました。
1997夏の旅(4)ザルツブルク [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/25
午前中は徒歩でザルツブルクの市内観光をしました。
↓朝のミラベル庭園
ザルツァッハ川を渡り旧市街に向かいました。
↓ゲトライデガッセ通り
この通りにあるモーツアルトの生家を見学してから、裏手にある青空市場で短時間のフリータイム。美味しそうなフルーツが並んでいましたが、ツアーですと食べる時間もありませんから見学だけ。
↓祝祭大劇場
↓劇場の裏手(楽屋口?)
聖ペーター教会を抜け、街のシンボルザルツブルク大聖堂へ。↓何台もパイプオルガンが並んだ壮麗な内部。
↓レジデンツ広場の観光馬車。ここで11:00の鐘を聴いた後、バスで郊外のヘルブルン宮殿へ。
↓仕掛け噴水のある楽しいヘルブルン宮殿
↓ ここで私も逃げる暇なく(椅子にも噴水の穴)水に濡れました。夏なのですぐ乾きましたが・・・。
↓ 他にも大きなオルゴールなど
↓ ハスキーを連れて観光している方たち。我が家のちょびを思い出しました。
市内に戻りランチ。午後はフリータイムでしたが、夜のオペラ観劇に備えてホテルに戻りお昼寝。心地よく眠れたおかげですっきり目覚めました。ホテルからはバスで祝祭大劇場へ。
↓まずは劇場ロビーで記念撮影
♪~『ボリス・ゴドゥノフ』ムソルグスキー@祝祭大劇場 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ 演出:ヘルベルト・ヴェルニケ ボリス・ゴドゥノフ:ウラジミール・ヴァーネフ フョドール:リリアーナ・ニキテゥー クセニア:イリド・マルテネス シャウスキー:フィッリプ・ランゲリッジ ピーメン:アレクサンドリア・モロゾフ デミトリー:セルゲイ・ラリン マリーナ:オルガ・ボロディナ 聖愚者:アレクサンダー・フェ―デン 演奏:ウィーンフィル ザルツブルクの夏、昼間は暑かったのですが、夜は札幌並みに涼しくなりました。初めての祝祭大劇場なので、緊張でドキドキでした。華やかに胸をあけたロングドレスのマダムたちに圧倒されました。そして名前も良く知らないままで聴いたゲルギエフの指揮、間口の広い祝祭大劇場でのロシアの民衆が大勢登場する迫力ある舞台。そして忘れられないボロディナの歌声、ヴェルニケの秀逸な演出にも感銘を受けました。なにもかもが凄い!!入門したての私にはもったいないほどの舞台でした。この時の公演で新しい演出の洗礼を受けたわけですが、グループの方たちが一様に背広姿の皇帝に違和感を持ったとは逆に、過去から現在のロシアの歴史を感じさせる手法に感銘を受けました。地の底からわき上がるようなロシアの民衆の合唱も、聖愚痴の哀しいまでに澄んだ歌も・・・特に最後の場面、聖愚者が幕を引きながらロシアの未来を嘆くシーンは忘れられません。当時はソヴィエト崩壊後まだ安定しない政情のさなかにあったロシア。その将来を想わずにいられませんでした。初心者なりにオペラって深いな~もっと観たい!との強い願望が芽生えた記念すべき夜になりました。当初はボリスはサミエル・レイミーが歌うはずでしたが、キャスト変更になりウラジミール・ヴァーネフ(エリツィンにそっくり!)が歌いました。補足:ムソルグスキーによる1872年の改訂版だったと思うのですが、長いオペラでした。この後の東京やウィーンで観たボリスの公演はすべて原典版の短い(2時間)ものでした。死ぬ前に(笑)もう一度マリーナの野心あふれる誘惑のアリア、ライブで聴きたいものです。 この時気が付いたのですが、午後のフリータイムでアクティブに過ごされた方はほとんど居眠りされていました。私は特に体力があまりない方なので、夜の観劇前の仮眠は必要と肝に銘じたのでした。 参考映像(TV):アバド/タルコフスキー盤 ↓CD:カラヤン/ウィーンフィル(ボリスはニコライ・ギャウロフ) |
1997夏の旅(5)ザルツブルク [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/26
この日はザルツブルク市内を離れて、ザルツカンマーグート地方を訪れました。青空と緑と湖の美しい景色が目にまぶしい。
↓バスの車窓から
↓ヴォルフガング湖畔のザンクト・ギルゲンはモーツアルトのお母さんの生地です。
↓ザンクト・ギルゲンから遊覧船でザンクト・ヴォルフガングへ。オペレッタ「白馬亭にて」の舞台になったホテル
↓少し小高い丘のうえにザンクト・ヴォルフガングの教区聖堂が建っています。ここにはパッヒャーMichael Pacher(15世紀にティロル地方で活躍した画家、彫刻家)の代表作とされる祭壇画があるので有名です。
教会内のショップで祭壇画についてのリーフレットを売っているのに気が付き買い求めましたが、ドイツ語なので写真以外は理解不能でした。帰国後、調べたところザンクト・ヴォルフガング祭壇画は1471年に注文を受けてから、聖母の生涯とキリストの生涯を息子や工房を総動員して、10年の歳月をかけて完成させたものと分かりました。大型の木彫だけでも19体、絵画は31面に及ぶ壮大な祭壇画です。
↓中央の木彫祭壇の奏楽の天使たちがあまりにも可愛くて。(絵葉書)
午後からは昨日と同じフリータイムになりました。今夜のオペラ「魔笛」は希望者のみで、現地手配となっていました。幸いチケットがとれたので現金で購入し、部屋に戻り仮眠。今夜のオペラ会場はフェルゼンライトシューレ、あの「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台にもなった岩山を背景にした半野外の劇場です。
♪~「魔笛」モーツアルト@フェルゼンライトシューレ 指揮:クリストファ・フォン・ドホナーニ 演出:アヒム・フライアー ザラストロ:ルネ・パーペ タミーノ:ミハエル・シャーデ 夜の女王:ナタリー・デセイ パミーナ:シルヴァー・マクナイアー パパゲーノ:マチアス・ゲルネ 弁者:ヘルマン・プライ 演奏:ウィーン・フィル ♪~サーカスの小屋でのマンガチックな演出でブーが飛んだ『魔笛』でしたが、好きなオペラの5本指に入るので、ホントに楽しめました。後から知ったことですが、この時の指揮者ドホナー二とウィーン・フィルは確執があったそうで、演奏もあまり感心しないできだったそうです。しかし、私には全然分かりませんでした(笑)。デセイの夜の女王はグルベさまとは違った魅力の素晴らしいコロラトゥーラで聞き惚れました。ただ演出のせいで魔法使いのお婆さんのような姿で登場。デセイのチャーミングな容姿にはまったく合いません(涙)。彼女はもうこの役は歌わないとのこと・・・しばらくあの歌声が耳に残っていました。パーぺやシャーデ、他の豪華歌手陣も完璧!評判の悪かったサーカス小屋や見世物の相撲取りも、モーツアルトの音楽の前ではどーでも良い(笑)半野外で岩山を背景に、観客席の固い座席(その後改良された)でわくわくして観た魔笛は心に残る舞台でした。 ↓パパゲーノは自転車乗り(プロマイド) 参考CD:ハイティンク/バイエルン放送管弦楽団(夜の女王はグルベローヴァ) 参考映像: モーツアルト<魔笛>1997.7 DIE ZAUBERFLOTE ザラストロ ・・・・・・・・・・・・・・・ハーリ ・ピータース(バス) タミーノ ・・・・・・・・・・・・・ ミヒャエル・シャーデ(テノール) 弁者 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ デートレフ・ロート(バス) 夜の女王・・・・・・・・・・・・・・・シンディア・ジーデン(ソプラノ) パミーナ・・・・・・・・・・・ クリスティアーネ・エルツェ(ソプラノ) パパゲーノ・・・・・・・・・・・・・・ ジェラルド・フィンレイ(バス) パパゲーナ・・・・・・・・・・・・コンスタンツェ・バッケス(ソプラノ) モノスタトス・・・・・・・・・・・・・・ ウーヴェ・ペパー(テノール) 第1の侍女・・・・・・・・・・・・・・・ スーザン・ロバーツ(ソプラノ) 第2の侍女・・・・・・・・・・・・・・ カローラ・グーバー(ソプラノ) 第3の侍女・・・・・・・・・・・ マリヤ・ジョナス(メッゾ・ソプラノ) 3人の童子、僧侶、鎧を着た2人の男 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ モンテヴェルデイ合唱団 指揮:ジョン・エリオット・ガーデイナー 演出:マリジュク・フォン・モレング 収録:1995年6月 アムステルダム・コンセルトヘボウ |
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1997夏の旅(6)ザルツブルク~インスブルック~コルティナ・ダンぺッツォ [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/27
3泊した初めての夏の音楽祭を愉しんだザルツブルクを離れ、次の目的地コルティナ・ダンぺッツォへ。途中チロル地方のインスブルックに立ち寄り、ランチと観光をしました。ランチはヨーロッパ・ホテルのレストランで済ませ、街の散策へ。
↓凱旋門
↓聖アンナ記念柱
↓旧市街
↓インスブルックのシンボル「黄金の小屋根の家」の周辺は観光客で賑やか。
↓モーツアルトが泊まったことで知られている古いホテル(この9年後に宿泊)
↓インスブルック市内最古の家オットーブルク(レストランになっています)
↓イン川の畔にて
↓宮廷教会とチロル民族博物館へも行きましたが、あまり記憶に残っていません。教会はゴシック様式で16世紀にパプスブルク家の祖マキシミリアン大帝の霊廟として建立。宮廷人の彫像の並ぶ内部は一般の教会のイメージとは違い、ひどく権威主義の目立つ厳めしいものでした。
フリータイムになり、旧市街の木彫製品の並ぶ小さなお店に入りました。おじいさんが独り、店番をしながら、手作業で小さな飾り物(キリスト教関連の)を彫っていました。受胎告知のマリアと聖ガブリエルがとても優しい表情でお値段も2万円台だったので、購入しました(9年後に行ったときはこのお店はありませんでした)
↓高さ10㎝くらいの小さなものですが、精巧に彫られていて、色も20年近く経っているのに褪せていないのに感嘆(2015.11撮影)
バスのお迎えまで、テラスのカフェでアイスコーヒーを注文。でも運ばれたものは?注文を間違えたのかとも思いましたが、後から聞いたところでは日本式のアイスコーヒーとは違うとのことでした。コップの底に濃いコーヒー(エスプレッソ?)その上に氷とホイップクリームが載っていました。
再びバスに乗り、南のイタリアを目指して走りました。ブレンナー峠を越えるとそこはイタリア・・・煉瓦の小さな古い教会などが見えてきて、何故かほっとして・・・。途中から東へかなり曲折した道を走って、ドロミテ山群の中心地コルティナ・ダンぺッツォに到着。夏でしたがすでに暮れかかっていました。部屋に荷を下ろして、ホテルから少し歩いたところの見晴らしの良いレストランへ。何をいただいたか忘れましたが、やはりイタリアの方が食事が美味しかった記憶があります。ホテルは山小屋風の素敵なHotel Europaでしたが、幹線道路に面しているので夜中まで車の騒音がして、やや寝不足・・・。
1997夏の旅(7)コツティナ・ダンぺッツォ~ヴェローナ [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/28
2階の部屋から真正面に高い山が見えました。↓はホテルの売店で買った絵葉書ですが、Monte Cristallo(3199M)です。なおCortina d'Ampezzoコルティナ・ダンぺッツォ(1224M)は1956年に冬季オリンピックが開催されたことで、ツアーの中高年の方たちはほとんど記憶にありました。ドロミテの山々に囲まれた美しい町です。
↓ホテルの部屋は簡素な山小屋風。
↓出発前。昨夕到着して早朝出発のため街歩きができなくて残念でした。
さて、ツアーのバスは東のボルツァーノまでドロミテ街道を走りました。バスの車窓からは次々に3000m級の山塊が現れ、その都度名前を説明されるのですが・・・今となっては特定できません。
途中何カ所か峠でストップして休憩。↓はファルツァレーゴ峠(2117M)です。
↓あちこちの谷間に咲いていたヤナギラン。
↓そしてルートの最高地点のポロドイ峠(2239M)へ。ここではゴンドラに乗ってポロドイ山頂まで行きましたが、深い霧がかかり、ドロミテ最高峰のマルモダーラを望むことはできませんでした。
昼食は朝ホテルからのランチボックス(パン、ハム、りんご)を抱えて、戸外で食べる予定でしたが、峠とはいえ標高2000Mですから寒くて、山小屋レストランに避難。温かいスープやお茶など注文していただきました。
午後からは太陽も隠れ、ぐんと寒くなってきました。再びバスで、美しいサッソ・ルンゴを眺めながらファッサ渓谷の街や村を過ぎ
↓カレッツァ湖へ。お天気が良いと湖水の緑や背景の針葉樹、向こうに聳えたつ山塊などもっと素晴らしい眺めだったと思います。周囲は遊歩道になっていますが、小雨も降ってきて少し歩いただけ・・・。
そして、ボルツァーノの街から南下して一路ヴェローナへ。ヴェローナの宿は街中ではなく、車で30分ほどの近郊にあるビジネスホテルでした。ホテルのレストランで夕食の後、バスでアレーナへ。野外劇場での『アイーダ』でしたが・・・。
↓ヴェローナのアレーナ(古代ローマの円形劇場)絵葉書
『アイーダ』ヴェルディ @ヴェローナ・アリーナ
指揮:ロベルト・トロメッリ 演出:ジャン・フランコ・デポジオ
アムネリス:バーバラ・デーヴア アイーダ:ダニエラ・デッシー ラメダス:F・アルミリアート(代役?) ラムフィス:カルロ・コロンバーラ アムナズロ(アイーダの父)::ブルーノ・ポーラ
♪~6年振りのヴェローナは夏の音楽祭のせいか、以前(5月)より街自体が綺麗に華やかになっていました。夜になると風が強くなり、気温も下がってきました。野外での観劇は相当に寒いという忠告で重ね着してアレーナへ。周囲の観客たちもダウンジャケットなどイタリアの8月とは思えないスタイルです。
華やかにエジプトの兵士に扮した男性の打つドラの開幕、そして背景のエジプトの大掛かりな神殿とまさに野外劇場ならではの舞台です。ところが始まって間もなく雨がポツンと落ちてきました。オーケストラの絃のメンバーがいちはやく楽器を抱えて退場。間もなく雨が上がったのを確認して再開されたのですが、「勝ちて帰れ」の大合唱の前にまたもや小雨模様になり中断。ほぼ満席の大観客のウェーブも効を奏さずついに中止となってしまいました。残念でしたが、この夜は寒い上に疲労がピークに達していました。歌手陣は当時としても一流のかたたちを揃えた公演でしたから、がっくりでした。また、ホテルは車で30分といえども遠く感じて・・・(涙)。
幸い、ホテルはバスタブもついた広い部屋でしたので、夜はぐっすり眠れました。
参考CD
テバルディにデル・モナコという、このころにはすでに伝説になりつつあったスター歌手のCDです。
1997夏の旅(8)ヴェローナ [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/29
午前中はヴェローナの観光です。トルリチェレの丘に登り、ヴェローナの街の見事なパノラマを楽しみました。オレンジの屋根瓦の連なりが綺麗でうっとり。昨夜の雨で流れたアイーダも忘れましょう・・・。
↓絵葉書ですが上の写真とは反対方向からの眺め
旧市街に戻り徒歩で散策。↓あちこちにローマ時代の遺跡が残っています。
↓ジュリエットの館では以前ここを訪れた時と違って、それぞれバルコニーに上がって、ジュリエット気分&撮影の時間がありました。
↓エルベ広場は市場がたって賑やかなところ。朝は涼しかったのですが次第に暑くなって、お買い物タイムにビール。
↓大好きな木苺のショッピングも忘れません。
↓シニョーリ広場のダンテ像の前で(6年前と同じところで)
↓スカラ家の墓
午後はフリータイムになりました。迎えのバスの時間を確かめてから、独りでsant'Anabtasiaサンタナスタージァ教会へ。
ピサネッロ Pisanello(1395頃~1455頃)15世紀北イタリアの国際ゴシック様式を代表する画家。ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノに師事。動物や幻想的物語の描写に定評がある。反面写実的な肖像画にも力量を発揮。多数の肖像メダルも残っている。
素描以外は総数10点あまりしか現存していませんが、このうち2点の壁画がヴェローナの教会にあります。初めに訪れたのはS.Anastasia、未完のファサードが荒削りな感じですが、ゴシック様式の教会です。入り口左にはチケット売り場があり、「ピサネッロ観れますか?」と訊きましたら、すかさずS.Fermo.Maggioreとのコンビネーション・チケットをお得だよと勧められました。ところがその肝心の「竜退治に出かける聖ゲオルギウス」が見つかりません。もう一度係りの人に確認しましたら、私の探す目線よりずーっと上、礼拝堂入り口アーチに掲げられています。高所にある上に色彩も薄く、
↓写真も撮りましたが、こんな状態です。
その頃はデジカメがないときでしたし、写りも悪いのでネット上の画像を下に貼りました。とにかくこの写真の方があの高さの実物よりも数段上です。こうしてみても主役は王女様と動物たちですね。
ここからエルベ広場やジュリエットの家を通過してS.Fermo.Maggioreサン・フェルモ・マッジョーレ教会まで10分ほど歩きました。
こちらの方がレンガ造りの大きな立派な教会です。2層式になっていて、下の階にピサネッロの「受胎告知」があります。記憶が大分薄れてますが、確か入り口から入って右側の壁に彫刻の墓碑があり、その上部のフレスコ画です。
教会内部が暗い上、絵の具も剥げかかっていますから、とても鑑賞する状態ではなかったのですが、聖母マリアの顔が確かにピサネッロの聖母らしい神秘的で、細面のはかなげな風情を見せています。あれから修復などなされたのでしょうか?写真も一応写したものの暗く失敗しました。ネット上で捜索中・・・。ここから次のサン・ゼノ教会に行こうと、近くを歩いている方に訊いたのですが、すごく遠いし説明のしようがないとのお答え。どっと疲れが出て、あきらめてバスの早めのお迎え(何回かのうち)で、ホテルに戻りました。夕食はアレーナ近くのレストランで。狭い路地裏のお店で食べたラビオリが美味しかったです。
♪~『蝶々夫人』プッチーニ@ヴェローナ野外劇場21:00~
指揮:アンジェロ・カンポーリ 演出:ベーニ・モントレゾール
マダム・バタフライ:ジョバンナ・デ・リゾ スズキ:フランチェスカ・フランチ ピンカートン:ニコラ・マルティヌッチ シャープレス:ファン・ポンス ヤマドリ:フェルナンド・チウッフォ ゴロー:ピエール・ルフェーブル
♪~翌日も昼間は半袖の暑さなのに、夜になると急激に気温が下がり、昨夜よりも厚着で出かけました。マダム・バタフライはプッチーニのオペラのなかでは一番好きなので楽しみでした。オペラ鑑賞教室でドミンゴ&フレー二の映像(下に追記)など観ていましたので、特別に予習なしでしたが、実舞台は初めてでした。主役のソプラノは容貌が美しいうえに、化粧や着物も日本的にしっくり似合って、歌も素晴らしい蝶々さんでした。このかたは活躍しているのでしょうか?その後、見かけたことがありません。
グループのある男性のかたはいやいやオペラ好きな夫人に付き合って参加されたそうなのですが・・・この蝶々さんには涙されてました。舞台はとてもシンプル。主な装置といっても背景の月に障子を置いただけ。アレーナの大きい舞台には少し淋しいようにも思えたのですが、日本の着物の華麗な美が生きていました。今回の旅の4つのオペラの最後でしたが、イタリアでプッチーニのマダム・バタフライが観て、聴けて充実感いっぱいでアレーナを後にしました。
↓ヴェローナ近郊のホテルの部屋
参考映像:道新教室で
プッチーニ<蝶々夫人>
Madame Buterfly
蝶々夫人・・・・・・・・・・・・・・・・・ ミレッラ・フレーニ(ソプラノ)
スズキ・・・・・・・・・・・・・クリスタ・ルードヴィッヒ(メゾ・ソプラノ)
ピンカートン・・・・・・・・・・・・・・・ プラシド・ドミンゴ(テノール)
シャープレス・・・・・・・・・・・・・・・ ロバート・カーンズ(テノール)
ゴロー ・・・・・・・・・・・・・・・・・ミシェル・セネシャン(バリトン)
フリッツ(ピエロ)・・・・・・・・・・・・・ウィリアム・マレー(バリトン)
アルベルト伯爵・・・・・・・・・・・・ダヴィッド・クヌットソン(テノール)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演出:ジャン・ピェール・ポネル
収録:1974年 ベルリン・ユニオン・フィルムスタジオ
1997夏の旅(9)ヴェローナ~パドヴァ~ベネツィア [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/30
2泊して野外劇場でのオペラを観たヴェローナを離れ、ベネツィアに向かいました。途中にある古都パドヴァに立ち寄り観光。パドヴァは6年前にツアーで来たことがありました。まず古刹S・Antonio(サンタントニオ教会)の参詣へ。
↓教会(ロマネスク=ゴシック様式)の外観(絵葉書)。ビザンティンのクーポラとロマネスクのファサードが特に素敵です。周歩廊のある内陣では熱心な信者さんたちに交じってサン・アントニオの遺物(舌!)に手を合わせ
↓回廊の付属の美術館も見学。聖堂入口のリュネットにあったマンテーニャの壁画が展示されていたようですが、記憶にありません。
↓外に出ると夏の終わりの青空が広がって、広場のドナッテッロの騎馬像です
↓そして、ここも再訪問のスクロヴェー二礼拝堂へ。簡素な佇まいのチャペルはジョットのフレスコ画で埋め尽くされています。1305年製作でイタリア絵画の中でもルネッサンスの夜明けともいえる最高傑作として知られています。
内部は以前のベンチは取り払われ、立ちっぱなしの見学になってしまいました(涙)。
↓左右壁中・下段「キリストの生涯」より。上から「降誕」「エジプトへの逃避」「ユダの接吻」(絵葉書)
ツアーの皆さんは隣接の美術館に行かれましたが、私はその向かって右に建つエレミターニ聖堂へ。ロマネスク=ゴシック様式で1276~1306にかけて建てられた教会ですが、第二次大戦の爆撃に逢い半壊。マンテーニャの壁画の残る後陣は特に被害が大きかったのです。それも忠実に再建されたと聞き見学しました。今はもう教会としては機能していませんので、単身廊の内部は装飾もほとんどなくガランと殺風景。後陣右のオヴェターリ礼拝堂へ。
↓中央の「聖母被昇天」は修復の足場がかかっていました。
↓右壁の「聖クリストフォロスの殉教」
鉄柵から中には入れません。マンテーニャの画家としての出発点になった作品ですが、画集で観るほど詳しくは観られなくて残念でした。隣で熱心に鑑賞しているドイツ人の女性に声をかけられました。イタリアと同様、ドイツも日本も戦禍の酷かった敗戦国です。理解できる言葉は少なくともお互いに分かり合えるものがありました。展示された壊れた教会の古い写真を見て、良くここまで修復できたわね、イタリアは素晴らしい~と感動の二人でした。他には見学者ゼロ。
↓スクロヴェー二礼拝堂やエレミターニ教会の建つこの公園は古代ローマのアレーナの遺跡のあったところなので、少し壁が残っています。
↓エルベ広場とラジョーネ館。この近くで昼食をとり
↓パドヴァ大学
↓カフェ・ペドロッキーなど通り抜けバスで一路ヴェネツィアへ。
↓バスからヴェツィアの街が見えてきました。
↓宿はサンマルコ広場からも近く、大運河に面した5☆のホテルバウアー・グリュンヴェルトに2泊しました。
疲れたのでゴンドラのカンツォーネ(経験済み)にも参加しないで、夕食までお部屋で休養しました。ホテル内のレストランで夕食。私たちのグループは運河の見えない席だったので、やや不満。今回の旅のお仲間には毎夏ザルツブルクを中心にしたオペラの旅をされるという方も多く、羨ましい限りでした。私は隣家に住む義母(当時82歳)のこともあり、今回が最初で最後になるかも・・・ヴェネツィアの夜は更けました。
1997夏の旅(10-1)ヴェネツィア [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
8/31
この日は3島巡りをするというツアーから離れて、独りで歩きました。7年前には時間切れで未訪問だったアカデミア美術館~ペギー・グッケンハイム美術館~サンロッコ同信会~フェラーリ教会~コッレール美術館とヴェネツィアの美術の見どころをせっせと訪問し、充実の一日になりました。
☆アカデミア美術館gallerie dell'Accademia(初)
この美術館はここヴェネツィアの絵画と彫刻の学校(アカデミア)のために1750年に創設されました。その後のヴェネツィア共和国の崩壊(1779年)とイタリア王国への編入(1805年)を経て、閉鎖された教会や修道院からのコレクションや名家からの寄贈、そしてのナポレオンの略奪品の返還も加わり拡大。収蔵品の増大に併せて、展示室の増築、パッラーディオ設計の回廊も加わりました。1882年には学校から分離され独立。現在はヴェネツィア絵画の14~18世紀を網羅する展示を誇っています。
イタリア・ルネッサンスのなかでも大きな勢力を持つのが、フィレンツェ派とヴェネツィア派です。素描重視のフィレンツェ派に対してヴェネツィア派は色彩と言われています。15世紀のヴィヴァリーニ一族、ベッリーニ一族、クリヴェッリ、カルパッチョから16世紀のジョルジョーネ、ティツィアーノなど多くの画家が活躍しました。彼らの作品の多くは世界に散らばりましたが、このアカデミア美術館にも傑作が残っています。何といってもヴェネツィア派の絵画を現地で鑑賞できるのはわくわくする体験でした。
14世紀前半の代表的画家Paolo Venezianoパオロ・ヴェネツィアーノのビザンチン様式とイタリアの新様式を融合させた「聖クララの多翼祭壇画」から始まり、ベッリーニ一族のAntonio Vivariniアントニオ・ヴィヴァリー二、そして、ヴェネツィア派の始祖Jacopo Belliniヤコポ・ベッリーニと2人の息子Gentile&Giovanniたち。なかでもジョバンニはヴェネツィア絵画を確立したことでスター的存在です。姉の夫となったマンティーニャやフランドル絵画から大きな影響を受け、色彩豊かで柔軟な独自のスタイルを生み出しました。当時のヴェネツィアで最大の工房を経営、弟子のジョルジョーネやティツァーノによって盛期ルネッサンスへの道が開かれました。
↓ そのジョヴァンニ・ベッリーニの大作「聖ヨブのいる祭壇画」(サン・ジュセッペ祭壇画)471×258、玉座の聖母子を中心に聖会話形式をとり、上部モザイクからの温かい光が照らす空間、下部の奏楽の天使たちの自然で無垢な表情など、素晴らしい~!
↓同じくジョヴァンニ・ベッリーニの「聖カタリナとマグダラのマリアの間の聖母子」58×107の右に描かれたマグダラのマリア(絵葉書部分)。黒い背景に優しい光、浮かび上がる美しいマッダレーナの静かな祈りの姿。キリスト教的古典美の頂点に到達した作品。
そして、ここで見逃せないのがジョルジョーネGiorgioneです。さきほどでも触れましたがジョヴァンニ・ベッリーニの弟子から始まる輝かしい画歴は35歳ごろの突然の死によって中断されてしまったのです。そのため作品は少なく、未完成の作品はティツィアーノほかが完成させたものもあり、作者帰属に議論が続きました。最近は「田園の奏楽」や「眠れるビーナス」はティツィアーノの作とされています。宗教や物語のテーマよりも風景や人物の詩的情緒の表現に重きをおく画法は近代的な概念を打ち出したものと言えるでしょう。そのなかでも主題不明の作品として知られているのが
↓ジョルジョーネの「嵐テンペスタ」82×73 (絵葉書部分)
この作品は「老女」とともに照明を落とした奥まった展示室で観ることができました。
他にはカルパッチョの「聖ウルスラ物語」のシリーズ、マンテーニャの「聖ゲオルギウス」、ヴェロネーゼの大作「レヴィ家の饗宴」、ティントレット「聖マルコの遺体の窃盗」など見応え十分。
↓一番印象的だったのはティツィアーノの「ピエタ」352×349です。画家の最後の作とのこと(未完のためパルマ・イル・ジョーヴァネが完成)。「色彩の錬金術といわれた大胆な筆触の色彩豊かな技法から晩年の画家が最後に到達した精巧な抑制の色調、燃えるような光の中での悲劇は心打つものがありました。(画像はNETから拝借)
大好きなクリヴェッリとピエロについては次回に(1999年再訪)。
次は家々の間を流れる細い運河に架かる橋を渡り、ヴェネツィアの現代アートのギャラリーへ。カナル・グランデ大運河からが表玄関ですが、私は裏側の庭園のほうから入館。ヴェネツィアでは滅多に見られない広い緑の空間に、わ~リッチ!
☆ペギー・グッケンハイム・コレクションColleczione Peggy Guggenheim(初)
ペギー・グッケンハイムはアメリカの大富豪ソロモン・グッケンハイムの娘で、父の収集した美術品をNYのマンハッタンに美術館をつくって公開しました。その経営手腕もさることながら、駆け出しの現代芸術家を庇護し、早くからその作品を収集した先見の明は素晴らしいです。20世紀前半のキュビズム、シュルレアリスム、未来派のコレクションは邸宅として住んでいたヴェネツィアの家で、彼女の死後美術館として公開されています。
表玄関にはマリーノ・マリー二の彫刻「The Angel of the City」(絵葉書)
ペギー・グッケンハイムが住んでいた当時の面影を大事にした展示なので、彼女の寝室のカルダーのモービルやブランクーシの彫刻など垂涎もの。客間などにはピカソ、タンギー、ブラック、
↓ダリ「タイトルなしUntitled」(絵葉書)
↓キリコ「赤い塔」73.5×100.5(絵葉書)
ディシャンなどの名品がズラリ・・・。そうそう彼女の元夫だったエルンストの作品もあったと記憶しています。絵葉書も買ってありました。
↓エルンスト「花嫁の着衣」129×96
続きます~
1997夏の旅(10-2&11.12)ヴェネツィア&帰国 [1997夏ザルツブルクとヴェローナ夏の音楽祭の旅]
~続きです。
↓水上バスからのアカデミア橋
ヴェネツィアの美術散策で欠かせないところはまだまだあります。ヴァポレットと呼ばれる水上バスに乗ってSan Toma駅で降りサン・ロッコ広場へ。この広場にはサン・ロッコ同信会と隣接したフラーリ広場にサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会があります。まずはフラーリ広場に面したレストランで昼食をとり、目の前の教会へ。
☆サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリBasilica di Santa Maria Gloriosa dei Frari教会
通常は縮めてフラーリ教会と呼ばれている14世紀に完成したレンガ造りの聖堂。イタリアンゴシック様式。ここにはティツィアーノの大きな「聖母被昇天」の祭壇画があります。大胆でドラマティックな構図と明暗の対比はこの100年後に現れるバロックの先駆としても知られています。カメラ禁止のためすべて絵葉書です。
↓ティツィアーノの「聖母被昇天」の祭壇画(1516-18)690×360
↓主祭壇に飾られた「聖母被昇天」
↓ジョヴァンニ・ベッリーニ「フラーリ三連祭壇画」のうちの中央部分「玉座の聖母子と2人の奏楽の天使」。弟子のジョルジョーネの影響も指摘されるという色彩や空間表現が見事ですし、何よりも奏楽の天使が可愛い!
↓彫刻家アントニオ・カノーヴァ(1757~1822)の墓碑
☆サン・ロッコ同信会Scuola Grande di San Rocco(初)
ルネッサンス様式の建物に1564から87年にかけて装飾を担当したのがティントレットです。主題はキリストとマリアの生涯、旧約聖書の諸場面、聖ロクスの物語など。弟子の手を借りずにほとんど自ら描いているというティントレットの代表的作品群。内部は暗いうえに2階にも気がつかず、この時は1階広間の「聖母の生涯」だけの鑑賞で終わりました。(2年後に再訪しています)
↓ティントレットTintoretto(1518~94)「受胎告知」425×545 動的でドラマティックな画風。室内に連なって飛びこむような天使たちと驚く聖母。日常の生活も細やかに、床の市松模様も印象的。
↓同じくティントレットの「エジプトへの逃避」422×544
水上バスでリアルト橋まで。お土産を買ったり、フェニーチェ広場に寄ったり(劇場はまだ再建中)
そして、夏の期間は夜までオープンしているコッレール美術館へ。
☆市立コッレール美術館 Museo Civico Correr(初)
サン・マルコ聖堂から広場をまっすぐ横断して突き当たりの建物、新行政館に美術館の垂れ幕が上部に掲げられているのが見えて、美術館とわかりました。階段を上った2階が思いがけず広い展示室になっていました。お目当ては
↓カルパッチョの謎の傑作「二人のヴェネツァ婦人」(1490頃)94×64です。洗浄したばかりでしょうか油絵の具の輝きが美しく、やっぱり本物は凄いなと見とれました。モデルは高級娼婦?とか、婦人たちの視線の先は?とか、ミステリアスな図像は見る人を否応なく惹き付けます。良く観ますとヴェニスの館のベランダの欄干のその左上に花瓶が置かれています。この花の部分から上が切断されていて、ほかの絵がこの上部に描かれていたと知ったのは、コレッルを訪れた後のことでした。(1998.2「芸術新潮」ポール・ゲッティ美術館の特集)画像はNetから拝借。
その他、なんたって凄いのはトゥーラの「ピエタ」(絵葉書)です。フェッラーラの大聖堂の二階で初めてトゥーラを見てからやみつき(笑)になった個性的なフェッラーラ派の絵画。ギクシャクした死後硬直タイプの死せるキリスト・・・言葉なく見つめるのみ。
↓ジョヴァンニ・ベッリーニの「ピエタ」(2人に天使に支えられる死せるキリスト)
かなり傷んではいますがアントネッロ・ダ・メッシーナの「ピエタ」(3天使を伴う)。最後にこれら3枚のそれぞれ個性的なピエタを観ることができ幸せ気分。そして、さきほどのフラーリ教会に置かれていたピラミッド型の記念碑のカノーヴァ作の「ヴィーナス」。美し過ぎる~!
旅の最後の夕食はアカデミア橋に近いレストランのテラスで。
↓アカデミア橋から
9/1~2
昨日は一日歩き回って、さすがに疲れてしまいました。何度かツアーの旅をしましたが、寝坊して朝のスーツケースを出し忘れたのはこの時だけ。。。めちゃくちゃスーツケースに詰め込んで、セーフ!あれほど慌てたことはありません。
朝早い出発でした。ロビーに行きますと、なにやらホテルの従業員たちまでひそひそと奇妙な雰囲気です。どうやらイギリスのダイアナ妃が亡くなったということでした。詳細は分からないままにミラノ・リナーテ~ロンドンへ。ヒースロー空港で「ダイアナ妃の交通事故死」の号外を手に入れ読んだのですが、パパラッチPaparazziという見慣れない言葉がでてきて、個人の名前でもなさそうですし・・・戸惑いました。それまで耳にしたことがなかったのです。帰国して日本のニュースでようやく理解できました。
12日間留守にしていた我が家に帰ってきました。夫の母も久しぶりに娘(夫の姉)と過ごせて、きっと幸せな時間を過ごしたはずと、お土産を手に早速隣家へ。しかし母娘といえども、2週間一緒に過ごすのはなかなか難しいものだったようです。それぞれの主婦歴も長く、家事のやり方も違うので・・・。「○○子さん(私のこと)、もう○○子(義姉)には留守を頼まないでね」、この一言でしばらくは旅に出られそうもなく、暗い気持ちに・・・ああ~なんとかしなくちゃ、負けてはいられませんです(笑)。
↓おみやげはほとんど最後のヴェネツィアで買ったものです。ヴェネツィアの特産絹のプリーツのクッションカバーはまだ現役です。