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1999春シリア・ヨルダンの旅 ブログトップ

1999春の旅(1)札幌~アムステルダム [1999春シリア・ヨルダンの旅]

 昨年秋にツアーですが初めてのロマネスク(フランス中部)の教会巡りをしました。あちこちの教会で旧約聖書の説話場面を表した柱頭彫刻や壁画を多数観たことで、その旧約の舞台である中近東に行ってみたいという気持ちがつのり、W社のツアーに参加することになりました。札幌からKLMでダイレクトでアムステルダムへ飛び、前泊してからヨルダンの首都アンマンへ入るというのも身体に無理なく思い、選択。今回の旅ブログは昨今のシリアの事情が特に悪く、旅の楽しい思いを綴るだけではない気の重さもありますが、平和だったあの頃のシリアを一介の旅人の覚書ですが少しでも蘇らせたい想いでアップします。
日程/13泊15日

千歳→アムステルダム(1)→アンマン(1)→ぺトラ(3)→ボスラ(1)→パルミラ(2)→ディレゾール(1)→アレッポ(1)→ホムス(1)→ダマスカス(1)→(機中泊)→アムステルダム→千歳

 まずはMAPの作成に取り掛かったのですが、苦戦。アラビア語の表記しかないところやホテルやレストランもマークのつかない(廃業?)ところも多数です。Google earthのストリートビューもほとんどなく、確認ができません。

Map


4/14(水) 千歳→アムステルダム

アムステルダム/インテルホテル1泊

 千歳空港のKLM搭乗口で集合。W社の添乗員さんが名古屋からすでに搭乗されて、ゲートまで出迎えてくれました。顔を見て「あらら!」昨年のベトナム・カンボジアの旅の名古屋支店の添乗員さんでした。さっぱりした気性の方で、私とは気が合いましたからラッキー!札幌は私だけでしたが函館や旭川からの参加者が5名に名古屋からの17名の計22名で一路アムステルダムへ。夕方アムステルダムに到着。明日もまた長距離移動ですから、チェックイン後は出かけずゆったり過ごしました。


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1999春の旅(2)アムステルダム~アンマン [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/15(木)

 アンマンまでの飛行機の出発は夕方です。それまでアムステルダムの観光をしました。まず、郊外のチーズ農家へ。チーズの製造過程など見学しました。即売もしていましたが、何しろ旅は始まったばかりですから手が出ません。アムステル川沿いののどかな緑地の風車見学もツアーならではのお決まりコースですが、風車を近くで見たことがなかったので◎でした。風車はレンブラントが度々ここへきてスケッチしていたので「レンブラントの風車」と呼ばれています。

↓立派なレンブラントの銅像もあります。

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 この後はいったん市内に戻りアムステルダム国立博物館へ。ここは3回目ですが、ツアーなので大人しく(笑)皆さんと一緒に回りました。なので、レンブラントやフェルメールの超有名な作品群のみ解説付きで鑑賞して終わりました。

 昼食はダム広場に近いDE NISSENで。食後は徒歩で運河沿いの花マーケットへ。

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バスで木靴工場に立ち寄り、夕刻のフライトでアンマンに飛びました。途中ベイルートに寄りアンマンへは夜になって到着。ベイルートからアンマンまでは南下したほうが近いのですが、イスラエルとの紛争中のためヨルダン川西岸を避け北方向からの大回りルートをとらざるを得なく・・・大層疲れました。アンマンでは市内の高級ホテルのメディリアンに1泊しました。


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1999春の旅(3)アンマン~ぺトラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/16(金)

 実質的にはこの日から中近東の旅になります。ヨルダンの首都アンマンの簡単な観光をしました。

↓出発前にホテルのドアボーイ(民族衣装のおじさん)と

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アンマンはローマのように7つの丘を持ち、紀元前16世紀ごろに築かれた都市ですが、古代のメモニアル的な遺跡はさほど残っていません。現在の都市は古代都市の上に築かれたからだそうです。まずは丘の上のアンマン城址から白と灰色の家がびっしり並ぶ眺め。古代ローマ時代の円形劇場が見えました。

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過密都市になったのは中東戦争の末、アンマンに逃れたパレスティナ難民が現地ガイドさんの話ではアンマン周辺だけで100万人!という…それを受け入れ、イスラエルとも近年友好関係を築いているというレバノンという国、懐が深いと感心しました。

↓アンマン城址には2Cに建てられたヘラクレス神殿の遺跡が残っています。神殿の建つ前は古戦場で、ダビデ王が水浴中の人妻パテシバをみそめ、后にするためパテシバの夫ユリヤを戦死させたところと伝えられているそうです。旧約(列王記)に記されたこの話はレンブラントの絵画にも描かれた有名なお話なので、その話の信憑性は疑わしいものの…想いは旧約の世界に飛びました。

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 近くにヨルダン考古学博物館がありましたが、ツアーの日程には含まれていなかったのか、入館しなかったのです。とても残念でした。この博物館には1947年に20世紀最大の考古学発見とされた「死海文書」の一部が展示されていたからです。

 バスはアンマンを離れ南西へ1時間ほど走り死海へ。↓海抜0メートルの地点で。朝に比べるとぐんと気温が上昇してきました。

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↓死海の畔のDEAD SEA HOTEL。ホテル横の簡易脱衣所(シャワー付き)で水着に着替えます。

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 海抜マイナス400mの地点にくると、海水浴ができる暑さになりました。恥ずかしながら「かなづち」の私ですが、死海では溺れることなく、簡単に浮かびました。5分ほど入っていただけですが、体はつるつるでとても気持ちが良かったです。

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ホテルの売店では死海グッズが並んでいましたが、ミネラルたっぷりという死海石鹸を購入。そして、ネボ山へ向かいました。

↓死海の対岸はイスラエル

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↓ネボ山(絵葉書)

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↓途中で見かけたベトウィン族の羊飼い。羊は何を食べてるのかと思うほど荒涼とした地です。

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 ネボ山はモーゼの終焉の地。旧約の「出エジプト記」などに記されたモーゼの生涯は荒野を40年も彷徨った末、約束の地を目前にしながらこの世を去りました。モーゼはイスラエル民族の指導者としてばかりではなく、新約「使徒言行録」でもモーゼは預言者として重要な位置を占めています。

↓ネボ山上ではモーゼの民を救ったエピソードにちなんだ「青銅の蛇」のモニュメント。(絵葉書)

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↓記念碑(絵葉書)。左に見えるバジリカ様式の記念教会には5、6世紀のモザイクが残っていますが、カメラ禁止でした。

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↓最近撮影されたNETの写真を拝借。訪問当時に比べるとずいぶん整備されています。

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 昼食はネボ山近くのSUAGHA RESTAURANTで。食後バスで15分ほどのマダバへ行き、聖ジョージ教会(ギリシア正教)の見学をしました。

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☆聖ジョージ教会(マダバ)には世界最古といわれる6世紀のパレスチナのモザイク地図が残っています。中心はエルサレムの市街地がかなり正確に描かれています。

↓エルサレムの部分(絵葉書)

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↓教会内部(イコノスタス)

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 マダバからデザート・ハイウェイを南下してぺトラへ。19:00過ぎにようやく到着。ぺトラではモーベンピックホテルに3泊しました。夕食はホテル内のレストランで。ブッフェスタイルでしたが、羊を目の前で炭焼きしていて、美味しくてお替りしました。この日は盛りだくさんの観光でした。そのうえマダバからぺトラまでのバスが長く、疲れました。ここでは3泊しますから、少しはゆっくりできるかしらと思ったのですが…。


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1999春の旅(4)ぺトラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/17(土)

 ↓3泊したぺトラのホテル。部屋も広く、ロケーションも抜群、ホテル内のレストランもディナーをブッフェスタイルで3回食べましたが、種類も豊富で飽きなく美味しかったです。スパイス好きなので中東料理は◎でした。

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~ この日は終日ぺトラの観光をしました。朝食を済ませ、9時少し前にホテルを出発、徒歩ですぐ近くに観光センターと曳き馬の乗り場があります。シク(隘路)の入り口まで、アルバイトらしき少年の曳く馬に乗ってのんびりトコトコ1Kくらいの道程です。歩く人たちも多いのですが、私たちのグループはお年寄りが多いので・・・。馬はニセコや千歳で何度か乗ったことがあり(曳き馬で)、大好きなので、もっと乗りたかったくらいでした。

↓シクの入り口で。

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↓30分ほど岩山の中を歩きます。

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↓ナバティア時代の祠。両側に水路跡の窪みも残っています。

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↓上を見上げると岩山が恐ろしかったり

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↓青空をバックにイチジクの実?

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↓摩耗していますが人物らしき像も。右は現地ガイドさん。説明を聞いたはずですが記憶にありません。

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↓そしてようやくエル・カズネ(宝物殿)が見えてきました。写真では奥のほうがピンボケになっていますが、切り立った崖の隙間から見えた朝日に輝く薔薇色のエル・カズネにわ~お!

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↓エル・カズネの正面

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↓正面に客待ちするラクダのタクシー

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↓内部は狭く奥へは入れません。エル・カズネは宝物殿という意味ですが、実際はナバティアの王の墳墓または葬祭殿といわれています。入口から柱頭彫刻をパチリ

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★ぺトラ遺跡群は自然の広大な岩山を削り出して造られています。その岩肌は多彩な縞模様を持ち、ユニークで神秘的です。シクの果てに現れ、印象的に登場するエル・カズネと1時間近くも岩山を登って辿り着くエル・ディルの2つの美しい建造物のほかに王家の墓や列柱通りやローマ劇場など。1日の観光では足りないほどの見どころが満載です。

紀元前6世紀にはエドム人によって岩山の要塞が築かれていたと言われていますが、歴史に登場するのは紀元前3世紀以降のナバティア人の都市として、エジプトからダマスカスに至る交易の中継地として繁栄し、一大帝国に発展してからです。しかし、106年にはローマ帝国の属州になり、その後の自然条件の悪化もあり力を失い、7世紀頃には忘れ去られてしまいます。幻の都市として忘れ去られていたぺトラが再発見されたのは1812年のことでした。スイスの探検家によって1200年の眠りから覚めたぺトラです。1985年には世界遺産に登録され、映画『インディージョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなり、世界的にも人気の観光地になりました。

↓エル・カズネの低い視点からの絵葉書。1839にDavid Robertsの描いたものです。

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 David Roberts(スコットランド1796~1864)の作品集はエジプトへ行ったとき購入してきていたので、お土産屋さんでこの絵葉書を見つけたときは「え~!ここにも来て描いてたの~」とびっくり。エキゾチックな詩情にあふれ、写真のなかった時代の貴重な記録でもあります。

 さて、エル・カズネからあちこちに点在する遺跡めぐりです。

↓王家の墳墓群も岩山を掘り抜いて造られています。

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↓ローマ時代の列柱の並ぶ大通り

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↓大通りの終わるところにローマの神殿

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 ランチはこの近くにあるレストランのテラスで。ミモザの黄色い花が岩山に映えて綺麗でした。午後からの山登りに備えて軽めに食べて、さぁ~出陣!と気合だけは十分でしたが・・・喘ぎ喘ぎようやく皆さんのしんがりでなんとか到達できました。私とはそう変わらない、または年上の年齢の方たちの健脚なこと!1時間はかかると言われた山登りを30分で登ってました(ちなみに私は50分)。

↓登り道で

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早く早くと手招きされ記念撮影が続き、終わってようやくエル・ディル(修道院の意)を見学。

↓写真はやはり西日が強く白っぽく写りました。ナバタエア式の柱頭を持つエンタブラチュア(柱の上に乗る水平材の総称)とのこと。一見イオニア式のように見えますが・・・。

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↓エド・ディル(絵葉書)

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↓後方にモーゼの兄アロンの終焉の地であるホル山

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↓岩山を下り

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元来た道を戻りました。山登りを含めて10K近くを歩き、ふらふら状態。途中でよほどロバのタクシーに乗ろうかと思いましたが、最後の曳き馬のチケットも残っていますから勿体ないし・・・シクを抜け、最後の1Kは馬の背に揺られて、終いには足を引きずりながらホテルへ。日頃の運動不足を痛感したハードな一日でした。この日を共に過ごしたお仲間は一気に親しくなった感じ。賑やかにビールで乾杯したぺトラの夜でした。


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1999春の旅(5)ぺトラ(ワディラム&アカバ) [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/18(日)

 この日はぺトラから南下して、ヨルダン唯一の港町アカバへ。途中、ぺトラ近郊の街にある「モーゼの泉」と赤い砂漠「ワディ・ラム」を訪れました。

↓「モーゼの泉」 イスラエルの民と共に40年間砂漠をさまよったモーゼが、水を求める民のために杖で地面をたたき、泉が涌き出たという奇蹟が残っています(民数記)。バスの中から建物を撮ったのでガラスが反射しています。

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↓一人ずつ泉に手を浸しての記念フォト。おっと!帽子が落ちそう~。

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 アカバの手前から西に30Kほど走り、ワディ・ラムへ。岩山を抜けるとあのアラビアのロレンスの世界・・・バスから4WDに乗り換えとは聞いていましたが、

↓ジープではなくトラックで、荷台にベンチが取り付けてありました。3台に分乗して出発

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↓「この人誰~怪しいおばさん 笑」、旅の前に砂漠の砂塵防護のためのスカーフ、マスクなど用意するようにと注意書きがあり、忠実に実行したのです。

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 映画『アラビアのロレンス』の冒頭場面のあの砂漠の情景は素晴らしかったです。覚えてらっしゃる方が多いと思います。あの映画を封切の時観た1963年と現在2016年では中東の状況は激変していますが、アラビア独立のために戦った英雄だったのかどうか・・・現在はマイナス面の評価も多く複雑ですね。↓予告編 音楽が美しく哀しい~♪

https://www.youtube.com/watch?v=-tZEfARQNbU

↓映画のワンシーンにも出てきた「ローレンスの泉」の付近に羊たちが休憩中。

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↓アカバに停泊しているクルーズ客(フランス人たち)がやってきました。私たちのマスク姿にぎょっとしていたようです。

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↓石器時代からの歴史のあるワディ・ラムのカザリ山峡にはナバティア時代の壁画や文字などが残っています。

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↓ここを登っていくと岩絵が観れるそう・・・ですが、ハードなのでパス。

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↓ 文字の刻まれた岩

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↓ここにもラクダのタクシー

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↓ワディ・ラムには遊牧民のベトウィン族が住んでいます。観光用の黒いテントが見え、ここで強烈な日差しを避けて休憩。

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↓遠くに鉄道列車が見えましたが、貨物専用とのこと。

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↓赤い砂漠の風景

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 アカバの町へ行き、昼食をとりました。Gulf Hotelのレストランで魚料理を食べた後は港からグラスボートでアカバ湾(紅海)の遊覧をしました。

↓アカバの浜辺

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↓遊覧船から。湾の半分はイスラエル領です。国境の町エイラットが見えました。

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 アカバは対岸はエジプトのシナイ半島、サウジアラビアは南に18Kと、複雑な国境地帯の町でもあり、紅海のリゾート地としても人気の町です。アカバからデザート・ハイウェイを北上してぺトラに戻りました。

↓途中のネゲブ砂漠を一望する展望台で。

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 ぺトラに戻り休息。着替えてホテルのレストランで夕食の前に自撮り。お気に入りのチャイナカラーのブラウス(コットン)を着て。

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1999春の旅(6)ぺトラ~ジェラシュ~ボスラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/19(月)

ボスラ/シャームパレスホテル1泊

 3泊したぺトラのホテルを出発して、バスは一路デザート・ハイウェイを北上し、アンマンでバスを乗り換えをさらに48K北西のジェラシュへ。

ジェラシュは古代ローマ時代からの遺跡が大規模に残っています。746年の巨大地震で一瞬のうちに廃墟になるまでは多くの市民の住む大都市でした。石器時代からの人跡も認められたジェラシュはヘレニズム以降は隊商都市として栄え、4世紀にキリスト教が伝わり、教会の跡地もいくつか発見されました。

長いドライブの後、ジェラシュに到着したのはすでに昼時で、ランチはJarazaという緑に囲まれた郊外のレストランで。遺跡まではまたバスに乗り、南門付近で降車して、見学しました。

↓丘の上に遺跡群が見えてきました

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↓南門をくぐると扇形のフォーラム広場。学生さんたちの修学旅行で賑やかでした。

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↓アルテミス神殿

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↓列柱通り。石畳の道にはローマ時代の馬車の轍の跡が残っています。

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↓ローマ劇場跡

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↓遊んでいた地元の子供たち

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↓他の遺跡。ビザンティンの教会跡など。細かい彫刻のディティールも後の西欧の中世キリスト教美術につながる歴史を感じさせ、興味深いものでした。

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 壮大な遺跡ですが、保存状態は良好です。しかし、ありがちな人工的な補修も目につかず、自然豊かな環境もプラスして素晴らしい遺跡です。

ジェラシュを後に、バスで国境通過してシリアに入りました。正確にはパスポートコントロールではバスを降り、プレハブの建物や鉄条網の横を2~300M歩いて、シリアへ。その国境から西に50Kのボスラの町で宿泊しました。夕食はホテル内のレストランで。

↓ホテルの部屋と階段踊り場のアラビア風休憩コーナー

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タグ:ジェラシュ
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1999春の旅(7)ボスラ~マルーラ村~パルミラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/20(火)

パルミラ/シャームパレスホテル2泊

  朝食を済ませ、ここ古代都市ボスラの観光へ。ローマ帝国の州都として栄えた要衝の地ボスラは穀倉地帯としても繁栄しました。2世紀にローマの都市計画に沿った列柱の並ぶ道路や劇場、浴場などがつくられました。現在は寂れた町に遺跡として保存されています。1980年に世界遺産に登録。

↓遺跡群の入り口付近

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↓現在も使われている大貯水槽(200m×150m×8m)

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 そしてボスラの遺跡のでも一番の見どころは古代ローマの円形劇場です。7世紀にイスラム教徒に占領されましたが、侵略者を防御するのに利用できると破壊をまぬがれたのです。

↓全景イメージはGoogle Earthより。

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↓完璧な形で残っています。絵葉書

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↓城壁のような堅固な壁に囲まれています。

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↓舞台の背景はコリント式の円柱で支えられた壁とその上に部屋も。玄武岩で築かれているので黒っぽい色。15000人収容で、音響効果も抜群なのも有名です。

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↓濠には羊さんたち

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↓ローマ式浴場跡

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↓アカンサスの柱頭

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 ホブスパンをおやつにほおばりながら列柱通り~大貯蔵庫跡へと見学。少しの間フリータイムになり、近くを散策しました。

↓イオニア式の円柱を門にしている民家

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↓ 近所のご婦人たちに写真撮影は断られ・・・はるか向こうに去っていく姿だけ。

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↓子供たちはOKでした。遺跡の中で無邪気に遊ぶお嬢ちゃん。

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↓ ロバと散歩する少年。

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そして、ボスラをあとにマルーラ村へ向かいました。途中ダマスカスでトイレストップし、ダマスカスから北西50Kほどのマルーラ村に到着。

↓聖サルキス(セルジオス)教会がバスから見えました。

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↓13世紀のイコンも飾られたギリシア正教の教会です。キリストが話していたというアラム語で、案内係の娘さんが「主の祈り」を捧げてくださいました。

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↓天蓋付きの祭壇。天井の青に聖母マリアの姿(下は絵葉書)

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 ランチはサフィールホテルのレストランで、日本風のローストチキンをいただいて、午後からはマルーラ村のもうひとつの見どころの聖タクラ教会へ。聖女タクラが迫害を逃れて過ごしたという洞窟に建てられた教会です。(修道院も併設)

↓背後に岩山が迫っています。記憶が薄れていますがエレベーターで昇ったような・・・。

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『キリスト教美術図典』によると聖女タクラ(テクラともいう、1世紀ごろ)は東方の聖パウロの布教と密接な関係があり、最初の殉教者の1人と想定された架空の聖女とのこと。パウロの説教をきいてキリスト教徒になり、異教徒の許婚から告発されて町を出ます。聖パウロに従って布教し、数々の苦難にあい、最後はここの岩山に逃れて、迫害者の前で岩山は閉じたことになっています。(新約/パウロ行伝)

↓聖女タクラの墓室

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そして、一路パルミラへ。途中シリア砂漠の広がるところで写真ストップ。

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 皆で写真を撮りあっていましたら、羊飼いの若い男性が二人物珍しげにやってきました。手を握りあっているのが珍しい・・・習慣なのか?仲良しなのか?

 長いバスの旅でしたが、夕刻ようやくパルミラの遺跡に近いホテルに到着。夕食はホテルのレストランでいただきましたが、食べ物が合わなかったのか、疲労のためか夜中に下痢が始り・・・さあ大変!。


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1999春の旅(8)パルミラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/21(水)

  何度もトイレに起きたので、寝不足です。この日はパルミラ遺跡の日の出を観るために早朝集合でしたが、行けるわけもなく添乗員さんに連絡しました。下痢をしやすいのでお薬は持参していたのですが、添乗員さんはこちらの下痢止めでないと効かないからと、部屋に届けてくれました。早速服用して、一眠り。目覚めると10時頃です。なんとか地元の下痢止めが効いたみたいです。お腹には何も入っていませんので、朝食室に行ってパン少々と紅茶で様子を見ることにしました。ツアーの皆さんはすでに観光に出かけています。「せっかくパルミラに来たのにぃ~」と気持ちは焦ります。独りで観光しつつ、皆さんとはランチの場所まで追っかけるつもりで、タクシーを呼んでもらいました。タクシーはトラックでしたが(笑)、まずベル神殿へ。待っててもらおうと思ったのに、なんとかかんとかと言って置き去り(涙)。ツアーですから人任せの旅です。遺跡の概要や地図もまだ頭に入っていません。「パルミラで何見るの~?」と、ほとんど白紙状態でベル神殿の前で途方に暮れる私。。。でも、ベル神殿の敷地に入った途端、救い主が現れたのです。日本人の観光客(中年の男性1人、女性2人)が私を怪訝そうに見ています。独りでシリアに来たのかとびっくりしたようで、声をかけてきました。彼らは兄妹で妹さんがご主人の仕事でダマスカスに住んでいて、この機会にシリア観光しようと二人が日本から来たとのこと。物価が安いので車(運転手つき)で数泊の予定で回るそうです。親切な方たちで、本当に助かりました。

★パルミラ  シリアのほぼ中央に位置するオアシスで、古代の隊商都市遺跡。1~3世紀にローマ帝国属領の商業の中継都市として繁栄したのですが、260年ごろ独立を図り王国となったのもつかの間、272年ローマのアウレリアヌス帝によって攻め落とされ、当時の女王ゼノピアはローマに連行されティボリで没。市内には巨大なベル神殿をはじめ多くの神殿、凱旋門、列柱道路、円形劇場などの建築物が切り石で構築され、ネクロポリス(墳墓群)が城外北西に連なっています。1980年世界遺産登録。

↓ベル神殿(西側入り口から)

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↓ベル神殿エリアに残る浮彫

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↓ベル神殿祭室(北側)

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↓ベル神殿祭室(南側)

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↓ベル神殿の全体図(Google earthより)

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↓ベル神殿

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 ベル神殿の見学を終え、円形劇場へ。ラクダのタクシーも待っていましたが、ランチの場所まで送ってあげるからとの3兄妹様たちのご親切に甘えさせていただきました。

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↓凱旋門

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↓列柱道路

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 ここから徒歩15分くらいの町に入ったところのPalmyra Touristレストランまで車で送っていただいて感謝でいっぱいでした。暑い砂漠の道を15分と言えども、体調を崩した私にとっては辛いことでしたから。。。3兄妹さまは「旅の神さま」に違いありません。

オアシスの町らしい緑に囲まれたテラスレストランで、ツアーの皆さんは丁度お食事中でした。私もご心配おかけしたことを詫びつつ、消化の良さそうなものを少々いただきました。道路を隔てた向かい側にパルミラ考古学博物館があり、みなさんはすでに見学が終わっていました。添乗員さんが付いてきてくれてすでに昼休みでしたが、チケットをもう買ってあると交渉してくれて、無事入館できました。男性の係員も嫌がらず親切にしてくれました。本当はカメラ禁止なのに他に誰もいないから写してもいいよって・・・。

↓これはかなり有名なパルミラの出土品と言って、写してくれました。

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 古代オリエントの伝統を反映した貴重なコレクションの数々を貸切状態で観ることができました。この後はツアーのみなさんと共に再び円形劇場~アゴラ~テトロピロン(四面柱)~葬送殿~ディオクレティアン神殿と巡りました。体調のせいかついて歩くのが精いっぱいだったようで、写真はありません。いったんホテルに戻って休憩時間になり、私はベットで横になっていました。少し元気になったので、皆さんとミニバスでアラブ時代の要塞跡へ。日没のパルミラの眺めを楽しみました。

↓競馬場跡

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↓パルミラの主要な遺跡群方向を遠望

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↓夕暮れ

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↓ツアーのある参加者が撮った素晴らしい写真(帰国後送っていただきました)

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↓パルミラの日没

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 夕食はホテルのレストランで。お腹の調子もまずまず快復しました。

↓パルミラのホテルの部屋と部屋からの眺めです。オアシスの緑に囲まれた素敵なホテルでした。

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1999春の旅(9)パルミラ~ディレゾール(ドゥラ・エウロポス&マリ) [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/22(木)

↓ 朝、パルミラを出発(ホテルのロビーにて)

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 パルミラから北東へシリア砂漠を250Kほど走りディレゾールへ。

↓シリア砂漠の広大な土と砂の景色。はるか向こうにベドウィン族でしょうか遊牧民たち。

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↓ 皆で記念写真を撮りあっていましたら、いつのまにか少年がやってきました。皆のモデルになってくれて、ありがとう!どこぞの国のようにお金をせびるようなこともなく、素朴な子でした。

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 そして、しばらくバスはひた走りました。砂漠の向こうにディレゾールの町とユーフラテス河が見えてきました。「はるばるここまでやってきたのね~」感無量でした。チグリス、ユーフラテスはいうまでもなく世界四大文明のひとつであり世界最古のメソポタミア文明の発祥地です。ほとんど資源を持たない乾燥した果てしない土漠に生まれた文明と旧約聖書の世界です。

 ↓ ユーフラテス河/ディレゾール橋から

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↓適当なディレゾール橋の写真がありませんので、Netから拝借。フランス統治時代に架けられた巨大な吊り橋ですが、何カ所か橋桁が設置されているので、揺れはあまり感じられませんでした。橋の向こう側から放課後らしい高校生が数人やってきました。私たちを見て人なつっこく話しかけてきました。言葉は通じませんが「ナカタ、ミウラ」は分かりました(笑)。サッカーが大人気のようです。

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ランチはユーフラテスの川沿いのシャームホテルのレストランで。シリア名物クッヴラルシュ(牛乳とヨーグルトで煮込まれた牛肉料理)をいただきました。

↓レストランから。風が吹いてきて向こう岸は霞んでいます。小さく写っていますが猫が川を眺めていました。

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↓ランチの後はバスに乗ってユーフラテスに沿って南東へ。80Kほど走ると砂漠の向こうにデュラ・エウロポスの壁門が見えてきました。

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↓ 予約制のようで閉まっていましたが、係員がオートバイで間もなくやってきました。

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↓ 上空からのDoura Europos遺跡の全景(Google earthから)城壁に囲まれ、区画が碁盤目になっているのを確認できます。

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★Doura Europosデュラ エウロポス (Salhiye/現在はサルヒエと呼ばれる)遺跡は紀元前280年頃マケドニアの植民都市として建設され、隊商都市として繁栄。165年ローマ帝国に占領されてからは軍事都市になり、数々の神殿、シナゴークや初期キリスト教の洗礼室などが建てられました。しかし、256年サザン朝ペルシアによって破壊され、4世紀には砂に埋もれ歴史上から姿を消します。20世紀になってからイギリス軍がアラビア人との戦いのときに偶然発見、発掘調査が進みました。発掘された各々の壁画は旧約聖書の物語を題材にしたものも多く、ダマスカス国立博物館やイエール大学に保存されています。現地には岩や砂地が残るだけですが、ガイドさんに従ってシナゴークの跡地など巡りました。   

↓フランス語の案内板がぽつんと立っているだけです。

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↓集会所?

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↓遺跡の向こうはユーフラテスの流れ

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↓河畔の白い家は発掘に携わる人たちの宿泊所。

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 さらに南東へ30分ほど走るとシリアに残る遺跡のなかでも有名なマリに着きます。

★マリMariはユーフラテス河中流の古代都市遺跡。1933年以来フランスの考古学者アンドレ・パロ(1901~80)の指揮する調査団によって発掘。シュメール初期王朝時代(BC2700頃~2350頃)、から神殿の建造が始り、、BC18世紀には全盛期を迎え広大な王宮が築かれました。マリからは数多くの美術品が発見され、ダマスカスやアレッポの博物館、ルーブル美術館に分蔵。また「マリ文書」と呼ばれる粘土板文書も多数発見され、これによってメソポタミア古代史の編年は大きく変わったとされています。マリの終焉はハンムラビの治世下の破壊によるものでした。

 それほど有名かつ重要な遺跡ですが、すでに発掘は終わり訪れる観光客も少なく、まさに「強者たちの夢の跡」。

↓古びたフランス語の看板

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↓王宮跡(テントをかけて保護)

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↓貯水漕

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↓水道跡

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 2頭の青銅のライオンのあったダガン神殿跡など見学しました。出土品をアレッポやダマスカスでこの後、観ることができると思うと心が躍りました。私たちグループのほかに10代の姉妹を連れたフランス人のファミリーが来ていましたが、娘さんたちの「こんなとこ面白くない~」と言わんばかりのうんざり顔。ご両親は興味津々の様子でしたが、親の心子知らず・・・ですね(どちらもご同様で 笑)。

 ディレゾールに戻り、シャームホテルにチェックイン。夕食もホテル内のレストランで。

↓砂っぽく汚れた服を着替えて夕食前に自動シャッターで

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↓ホテルの部屋

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1999春の旅(10)ディレゾール~リサファ~アレッポ [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/23(金)

 ディレゾールを朝出発し、北西方向へバスは走り、リサファの遺跡に到着。

★リサファの遺跡  リサファ(古名セルジオポリス)にはローマ帝国時代の6世紀に建設された聖セルジオ教会があり、巡礼地として栄えましたが、サザン朝ペルシアの侵攻により、街は壊滅。ビザンティンの聖堂の貴重な例として土漠の地に残っています。

↓聖セルジオ教会の身廊(良い写真がありませんので、Netから拝借しました。アプスは円形ですが、後陣外観は方形というプラン。記憶が薄れていますが、1999年当時はまだ下の写真のように整備されていない頃、もっと荒れた感じでした。

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↓うっすらと残るクロスの跡

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隊商都市として栄えたことがうかがえる6つの大きな貯水槽、モスクの跡など徒歩で見学。まだ体調が戻っていなくて、乾燥地帯のため持病の咳もでて・・・疲れました。

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 メソポタミアはシュメールとアッシリアに分けられます。前日訪れた古代都市国家マリはシューメール(ユーフラテスの下流、主に現在のイラク)の圏内ですが、二つの文化が交差しています。今日から巡るアッシリア(シリアの名前はここから)はシュメールより西側、時代ももっと降りた文明です。北シリアには3世紀からの初期キリスト教(ビザンティン)の教会堂もいくつか残っていますが、上記のリサファ以外は未訪問のままに終わりました。

↓アレッポへの途中、石油掘り井戸が見えました

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 アレッポに到着。2時ごろ、遅いランチを市内のAl Karamで。仔牛のライス詰めクリームソースなどいただきました。

★アレッポ  ダマスカスに次ぐシリアの大都市。古代から中世までメソポタミアと地中海を結ぶ交易の中継地として繁栄しました。旧市街には全長12Kに及ぶ長大なスークを擁し、12世紀に築かれた城壁に囲まれ、丘の上にはアレッポ城が聳えています。1986年に世界遺産に登録。

ランチの後はアレッポ考古学博物館へ。内部はカメラ禁止でした。そのためか、ほとんど記憶に残っていませんので、復習を兼ねて参考書の『シュメール』『アッシリア』人類の美術シリーズ(新潮社)からスキャンしました。

↓博物館入口(私の撮った写真は行方不明なのでNetから拝借)にはテル・ハラフ出土BC9世紀の巨像(コピー)がお出迎え。

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 この巨像が発掘されたテル・ハラフTel Halafはアレッポから北東に300Kほどに位置し、メソポタミア原史時代の一時期がこの都市の名前をとってハラフ期と呼ばれていました。その後2000年以上も見捨てられていたのですが、紀元前11世紀ごろ廃墟の上に新しい都市が再建され、カブル川に突き出たさほど広くもない丘(テル)に神殿や宮殿がひしめくように建てられ、奇異な彫刻群が集められていたのです。上記の巨像はカバラ宮殿の玄関を飾っていました。門に置かれていたアレッポに収蔵されている<人さそり>も訪れるものに恐怖を与えたに違いないです。ハラフの発掘にはドイツの考古学者オッペンハイマーが携わり、ベルリンに持ち帰ったコレクションはハラフ博物館に展示していたのですが、第二次大戦で建物ごと破壊され、バラバラになった破片は復元できたものはベルガモン博物館に収蔵されています。黒い玄武岩のボディに白目、その黒い眼が強烈な印象でしたので、出土したハラフに寄り道検索して長くなりました。

↓ハラフ出土の「聖霊と有翼円盤」腰羽目の浮彫(BC1000年頃)/アンドレ・パロ『アッシリア』よりスキャン

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↓「偶像」女神 BC3000年頃(左)と「生贄を捧げ持つ人」(部分)BC2000年頃 /両方ともアンドレ・パロ『シュメール』からスキャン。

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アレッポの博物館にはマリの青銅のライオン、神官や王の像、マリやエブラの粘土板、円筒印章、粉ひき、抱き合っている夫婦像など多数。

 さて、博物館からアレッポ城へ。

↓全景(絵葉書)

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中央門~貯水槽~小モスク~大モスク~見晴らしのテラス~新しい劇場~王宮跡のサウナ(イスラム風)~ミーティングホール~王の抜け道~中央門とガイドさんについて歩きました。

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↓近くにモスクのミナレットが見えて、古都アレッポの眺め。

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アレッポの宿はシャバ・シャームホテルで1泊。夕食はホテル最上階のパノラマレストランで。

↓ホテルの部屋

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1999春の旅(11)アレッポ~(エブラ&ハマー)~ホムス [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/24(土)

 この日はまず、アレッポのスークの見学とショピングを愉しみました。シリアの人々の日常に触れることができ、スークのアラビアチックな異空間もとても印象深いモノでした。

↓スークの石積の天井に小さな明り取り窓が幻想的。

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↓ロバも通行してます

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 休日の翌日だったこともあり、人出はそう多くなく、シャッターを下ろしている店もちらほらでしたが、

↓肉屋さんらしき店先に不思議なモノが・・・ガイドさんに訊くと羊のひずめとか。スープとかシチューに使うのでしょうか?

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↓こちらは串焼き屋さん。炭火で焼いてました。

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↓臓物屋さん?右に選挙?のポスター。シリアは軍事国家なので、アサド大統領(父)をはじめ強面の軍人さんのポスターが目につきます。

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↓ オリーブの漬物や香辛料を売る食料品屋さん。ユダヤ系らしく左上に貼ってあるポスターも普通の人。

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↓八百屋やさん。中東料理は前菜の種類も多く野菜も美味しかったです。

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↓スークの雑貨屋さんのおじさん。ここでオリーブ石鹸を10個ほど購入しました。当時日本ではソニープラザでしか売ってませんでしたし、値段も500円以上してましたから、1/5~1/10くらいでゲット。友人たちへのお土産に喜ばれました。

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 ツアーの全員がオリーブ石鹸を購入しましたから、おじさんも大忙し。長い棒状のものをカットするので時間もかかりました。

↓スークの近くの古い民家。2階に木製の張り出し部屋がついています。

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 アレッポの街歩きをもう少ししたかったのですが、急かされるようにバスに乗り南下。古代都市国家エブラの遺跡を見学しました。といっても建造物らしきは残っていません。緑の小麦畑や野原に囲まれた丘の上の廃墟に爽やかな風が吹き、崩れた石の陰にポピーやアザミが咲いていました。

★エブラ遺跡   アレッポの南西、数十キロのTell Mardikh(テル・マルディーフ)という丘に位置し、BC3000年後半とBC2000年前半の2つの時期に重要な都市国家でした。その名前はシュメール語の資料などで知られていたのですが、1964年からのイタリアの発掘調査によってTell Mardikhが古代のエブラであることが判明。1975年には文書庫から大量の楔形文字の粘土板が発掘され、大きな注目を浴びました。旧約聖書の「創世記」につながる言葉も記され、ここにアブラハムが一時居留していたかもなど、憶測されています。

↓エブラ遺跡の丘

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↓文書庫は雨などを防ぐためカバーで覆われています。

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エブラがヒッタイトの王により破壊されたのはBC1650年から1600年とされ、その時の焼き討ちで粘土板が焼かれたため強固になり、良好な状態での発見につながったそうです。

↓遺跡の石も焼かれた跡が黒く残っていました。

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 次はまた南下しハマーの町に入りました。ハマーに来るまでは大水車の回るのどかな町としか知らなかった無知な私でした。1982年アサド政権(現在のアサド大統領の父)のもとで蜂起したムスリム同胞団の鎮圧を目的とした焦土作戦で多くの一般市民が巻き添えになった「ハマーの虐殺」のあったところだったのです。古都として知られていた歴史あるハマーの町は大部分失われたと聞きました。怨念は残らないものかな~と気がかりだったのですが、まさかこの訪問時から十年少しで、ここを反政府軍の拠点とした「シリア内戦」が始まるとは・・・。

↓オロンテス河畔の4つの水車のあるテラス・レストランFour Noviaで昼食をとりました。

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ハマーではどこも観光せずに食後はまたバスに乗り、十字軍の砦、イスラム時代は要塞として使われたクラック・デュ・シュバリエへ。

★クラック・デュ・シュバリエ(カラート・アル・ホスン)はシリアの世界遺産(2006年登録)です。1142年から1171年まで、十字軍の聖ヨハネ騎士団の拠点として、ホムスの西40Kの標高650Mの峰に築城。1271年にマルムーク朝の王の計略にはまり、城を明け渡してしまいました。その後礼拝堂はモスクに変えられ、対十字軍の前線基地として使われました。十字軍撤退後はマルムーク朝の副王の居城となり、20世紀になってフランスの文化財保護の関係者が訪れた時は農民500人が住みついていたそうです。それらを移住させ本格的に修復。歴史的にも重要なロマネスク様式の名城として知られています。

↓南方向上空より(Google earth)

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↓教会はゴシック様式です

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↓内部の見学が済み、城壁の周りを散策しました。

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 この日はホムスのサフィールホテルに1泊しました。一人旅の女性3人が同じ番号の部屋というので、どうしたのかしら?とドアを開けてびっくり3部屋に分かれた個室と大きな食堂のスィートルームでした。3人でじゃんけんして負けたので、お姫様タイプの部屋を逃しました。私は侍女の部屋(笑)でしたが、それでも広い~。

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 夕食はホテル内のレストランで。旅もそろそろ終わりに近くなりました。食後もスィート組の3人は行き来が簡単なので、おしゃべり・・・あれこれ。


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1999春の旅(12)ホムス~バールベック(レバノン)~ダマスカス [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/25(日)

 ホムスは宿泊しただけで、観光なしでした。ホムスから国境を越えてレバノンに入国。ホムスからは100Kほど南西のバールベックを目指しました。途中けしの花の群生するところで、写真ストップ。私はバスで眠っていて、降りるのが億劫でパスしてしまいました。今になれば真面目に撮っておけば良かったと後悔しています。ベッカー高原を走りバールベックの到着。まずは併設された博物館で出土品を観て、これからの遺跡見学の予習をしました。

★バールベックBaalbek(古代名ヘリオポリスHeliopolis)  ベッカー高原の中央にある古代の宗教都市遺跡。ヘレニズム期の建築の代表であるジュピター神殿、前門、六角形の前庭、大庭園は1世紀中ごろに建設が始り250年頃完成。バッカス神殿は150年ごろに建設されました。最後にヴィーナス神殿がバロック的要素の色濃い様式で建てられ、巨大で優美な神殿群はローマ帝国の聖地として、現在でも世界有数の遺跡です。1984年世界遺産に登録。

↓バールベック博物館

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↓そして遺跡へ。入口付近の列柱。

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↓ジュピター神殿は1759年の大地震によりかなり崩壊。残った6本の巨大な柱から、広壮な神殿の姿が偲ばれます。

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↓バッカス神殿

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↓礼拝堂

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↓バールベックから眺めたレバノン山脈

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 ランチは遺跡近くの由緒あるパルミラホテルのレストランで。リラの花が咲いていました。

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 伝統のある古いホテルでの食事でした。最盛期はどんな雰囲気だったのでしょうか。サービス係のシニアの男性たちの心のこもったお給仕で、気持ちよく、美味しくいただきました。中東料理と言えばレバノン料理ですから、ようやく本場の味です。多彩な前菜やチキンカレーに舌鼓。

 そして2時間ほどかけて、国境を越えダマスカスへ。ダマスカスが最後の訪問地です。シャームパレスホテルに1泊しました。夕食はホテル内の中華レストランで、久々のアジアン・フード。今回の旅行中に誕生日を迎えられた5人の参加者さんのお祝いで、賑やかでした。

↓ホテルの部屋

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1999春(13&14.15)ダマスカス~帰国 [1999春シリア・ヨルダンの旅]

4/26(月)

  旅の最後の日になりました。夜中の飛行機で出発しますので、ほぼ丸一日ダマスカスの観光です。バスでカシオン山に登り、街の眺望。ここカシオン山は旧約聖書の創世記のなかで、カインがアベルを殺した場所(人類最初の殺人と言われる)として知られています。

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 カシオン山の麓には前のアサド大統領の要塞のような官邸が建っていて、説明に寄りますと滞在しているかどうかは秘密になっているそうです。

★ダマスカス/古代都市ダマスカスは4000年以上の歴史を持ち、アッシリア、バビロニア、ペルシア、ローマ帝国の支配下にありましたが、7世紀にイスラム教のウマイヤ王朝の首都になり繁栄。旧市街を囲む城壁は1世紀にローマ時代に建設されたのですが、その後幾度も改築されています。旧市街は迷路のような狭い道が続き、ウマイヤドモスク、アゼム宮殿、スークなどがあり、徒歩で観光できます。

 そして新市街のダマスカス国立博物館へ。旧市街西側に建つ博物館は、入り口前の広い庭園に石像や列柱などが配された堂々たる構え。ここでは久しぶりに日本人の観光客とすれ違い、私のツアーの男性が挨拶して「どちらからいらっしゃったのですか?」となにげなく尋ねましたら、いきなり相手のシニアの男性が怒り出して、びっくり!別に住所を聴いたわけでもなく、東京とか北海道とか言えば済む話ではありませんか・・・。ああいう人と一緒のツアーでなくて良かったわ~。

★ダマスカス国立博物館/紀元前500年以降のヘレニズム、ローマ、ビザンティン、イスラム各時代の作品を展示。代表的な蒐集品にウガリトの出土品、ドゥーラ・エウロポス出土の「シナゴーク壁画」、同地出土の「コノーンの供犠図」、パルミラ出土の「ヤルハイの墓」など。

始めはガイドさんについて、シナゴーク壁画など観て回っていましたが、膨大な円筒印章や粘土板の部屋ではぐれてしまいました。でも探す時間も惜しくなるほどのコレクションですから、勝手に鑑賞することにしました。記憶も薄れ資料(絵葉書が行方不明)もほとんどないのですが、参考書のアンドレ・パロ著『シュメール』から

↓マリ出土「大歌手ウル・ニナ」BC3000年前半(右は後姿)

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↓ドゥーラ・エウロポス出土の「シナゴーク壁画」(部分)Netから拝借。「出エジプト記」のモーゼがナイル川から拾われる場面

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 一番印象に残ったのはウガリトからの出土品で頭は獅子、体は鷲の小さな置物(墓の副葬品?)でした。前年ロマネスクの旅で見かけた柱頭彫刻にそっくりだったのです。パルミラ・ベル神殿のロゼッタ模様の天井といい、オリエントからヨーロッパのロマネスク美術に与えた影響はエミール・マールが「我々がフランス全土を遍歴してロマネスク教会のひとつひとつの前に立つとき、我々はただちに、その図像、その秘儀的要素、その比喩の中にオリエントを見出して驚かないだろうか。かって東方の博士たちが幼児イエスになしたように、キリスト教に贈り物を贈ったのは、全アジアである」と書かれています。

 さて時間になり館外へ、入り口周辺に皆さんの姿・・・「すみません~!」と駆け寄ると、「誰も心配していませんでしたよ。あなたは慣れていらっしゃるから」って(汗)。またバスに乗り旧市街へ。

↓旧市街の通り

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↓水売りの道具。いくら暑くても買いません(笑)

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↓ケバブ屋さん

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↓街角風景

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↓ミナレットが見えました。ウマイヤドモスクへ。

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★ウマイヤドモスク(大モスク)/ローマ時代の神殿~キリスト教会堂の建てられた場所に8世紀初めに建設。中庭を囲んで礼拝堂と回廊があり、壁面はビザンティン風のモザイクで飾られています。

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 ↓大モスクに入るには、女性は茶色のチャドル風コートを着用しなければなりません。暑いうえに汗臭くて閉口しました。

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↓礼拝堂はビザンティン宮殿建築に倣ったもの

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↓イスラムの預言者でもある洗礼者ヨハネの首が収められている祠が堂内にあります。西欧人もお参りしていました。

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↓モスクの周辺も散策

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↓ ランチはモスク近くのウマイヤド・パレスレストランにて。レストランの前の通り。

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 食後はアゼム宮殿へ。オスマントルコ時代の領主の館で、現在は民族資料博物館になっています。

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↓ダマスカスは絹織物の産地。工芸が盛んでした。

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↓キリム屋さん

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↓街角風景

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↓聖アナニア教会へ

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↓聖アナニアの地下教会には聖パウロが回心した様子の描かれた板絵が飾られていました。写真禁止。

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↓聖パウロ教会はバスの中から、ちら見だけ。

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 この後はスークで自由時間でしたが、何も買うものがなくぶらぶらしただけ。

↓ダマスカスのスーク。アレッポに比べるとやはり現代の市場風。

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 夕方になりホテルに戻りました。夕食はホテルの最上階の回転展望レストランで。旅の最後の晩餐を楽しみ、10時過ぎにダマスカス空港へ。アレッポで購入したオリーブ石鹸が重く、重量制限ギリギリ(当時は30K)で、パス。真夜中の1時頃KLMにて空路オランダへ。

4/27(火)→アムステルダム5:45/13:00→

 早朝にスキポール空港に到着しました。乗り換えの時間を利用して、希望者だけ添乗員さんと空港駅から列車でユトレヒトへ。運河の流れる静かな街並みを散策。行きたかった美術館は遠いとのことで諦め、お茶したりのんびりしました。午後のKLMで帰国の途へ。

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4/28(水)→千歳6:30到着。道内組5人は飛行機を降り、他の方たちは名古屋まで。空港からバスで帰宅しました。旧宅は国道36号線に近く、空港バスを利用することが多かったです。

 17年前の旅のうえにツアーでしたから、地理や遺跡や出土品の記憶もあいまいで、Google earthや検索、ブログのお仲間の旅日記も参考させていただき、なんとか終わらせることができました。いつものお気楽な旅日記と言いたいところですが、シリア内戦やISイスラム国の台頭などがあり、貴重な遺跡の存在自体が危ぶまれています。Google earthでパルミラのベル神殿が跡形もなく破壊されている画像には涙を禁じえませんでした。いえ、それ以上にシリアの人々の失われた多くの命に、難民の方たちの苦難に、せめて心だけ沿わせたいと思います。シリアに一日も早く平和が訪れますように(終)。


タグ:ダマスカス
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