1999春の旅(3)アンマン~ぺトラ [1999春シリア・ヨルダンの旅]
4/16(金)
実質的にはこの日から中近東の旅になります。ヨルダンの首都アンマンの簡単な観光をしました。
↓出発前にホテルのドアボーイ(民族衣装のおじさん)と
アンマンはローマのように7つの丘を持ち、紀元前16世紀ごろに築かれた都市ですが、古代のメモニアル的な遺跡はさほど残っていません。現在の都市は古代都市の上に築かれたからだそうです。まずは丘の上のアンマン城址から白と灰色の家がびっしり並ぶ眺め。古代ローマ時代の円形劇場が見えました。
過密都市になったのは中東戦争の末、アンマンに逃れたパレスティナ難民が現地ガイドさんの話ではアンマン周辺だけで100万人!という…それを受け入れ、イスラエルとも近年友好関係を築いているというレバノンという国、懐が深いと感心しました。
↓アンマン城址には2Cに建てられたヘラクレス神殿の遺跡が残っています。神殿の建つ前は古戦場で、ダビデ王が水浴中の人妻パテシバをみそめ、后にするためパテシバの夫ユリヤを戦死させたところと伝えられているそうです。旧約(列王記)に記されたこの話はレンブラントの絵画にも描かれた有名なお話なので、その話の信憑性は疑わしいものの…想いは旧約の世界に飛びました。
近くにヨルダン考古学博物館がありましたが、ツアーの日程には含まれていなかったのか、入館しなかったのです。とても残念でした。この博物館には1947年に20世紀最大の考古学発見とされた「死海文書」の一部が展示されていたからです。
バスはアンマンを離れ南西へ1時間ほど走り死海へ。↓海抜0メートルの地点で。朝に比べるとぐんと気温が上昇してきました。
↓死海の畔のDEAD SEA HOTEL。ホテル横の簡易脱衣所(シャワー付き)で水着に着替えます。
海抜マイナス400mの地点にくると、海水浴ができる暑さになりました。恥ずかしながら「かなづち」の私ですが、死海では溺れることなく、簡単に浮かびました。5分ほど入っていただけですが、体はつるつるでとても気持ちが良かったです。
ホテルの売店では死海グッズが並んでいましたが、ミネラルたっぷりという死海石鹸を購入。そして、ネボ山へ向かいました。
↓死海の対岸はイスラエル
↓ネボ山(絵葉書)
↓途中で見かけたベトウィン族の羊飼い。羊は何を食べてるのかと思うほど荒涼とした地です。
ネボ山はモーゼの終焉の地。旧約の「出エジプト記」などに記されたモーゼの生涯は荒野を40年も彷徨った末、約束の地を目前にしながらこの世を去りました。モーゼはイスラエル民族の指導者としてばかりではなく、新約「使徒言行録」でもモーゼは預言者として重要な位置を占めています。
↓ネボ山上ではモーゼの民を救ったエピソードにちなんだ「青銅の蛇」のモニュメント。(絵葉書)
↓記念碑(絵葉書)。左に見えるバジリカ様式の記念教会には5、6世紀のモザイクが残っていますが、カメラ禁止でした。
↓最近撮影されたNETの写真を拝借。訪問当時に比べるとずいぶん整備されています。
昼食はネボ山近くのSUAGHA RESTAURANTで。食後バスで15分ほどのマダバへ行き、聖ジョージ教会(ギリシア正教)の見学をしました。
☆聖ジョージ教会(マダバ)には世界最古といわれる6世紀のパレスチナのモザイク地図が残っています。中心はエルサレムの市街地がかなり正確に描かれています。
↓エルサレムの部分(絵葉書)
↓教会内部(イコノスタス)
マダバからデザート・ハイウェイを南下してぺトラへ。19:00過ぎにようやく到着。ぺトラではモーベンピックホテルに3泊しました。夕食はホテル内のレストランで。ブッフェスタイルでしたが、羊を目の前で炭焼きしていて、美味しくてお替りしました。この日は盛りだくさんの観光でした。そのうえマダバからぺトラまでのバスが長く、疲れました。ここでは3泊しますから、少しはゆっくりできるかしらと思ったのですが…。
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