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1995秋の旅(1、2)札幌~フランクフルト [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

 前年春は一人旅だったのですが、今回は大年学2年生になった次女がドイツ語夏期講習のため北ドイツのマールブルクにホームスティしていたため、一緒にドイツ語圏を中心に回ることになりました。

旅程はフランクフルト(1)~ウィーン(2)~プラハ(2)~ブダペスト(2)~ウィーン(2)~ミュンヘン(3)の12泊14日でした。

↓MAP

 

旅の手配は旅行代理店グローバルの個人旅行のパンフレットを見て決めました。航空券やホテルも手配してもらい、プラハとブダペストはウィーンからの4泊5日の現地発のバスツアーを予約してもらいました。

 9/1(金)千歳8:00→関空10:05/13:35→フランクフルト18:45(ルフトハンザ航空)

 フランクフルト空港ではホームスティを終えた次女が迎えに来てくれました。マールブルグ滞在はとても楽しかったそうで、元気な笑顔。そして、先にチェックインしたホテルはとても立派だと嬉しそう・・・でしょうね。自分で泊まり歩くのはユースホステル系がほとんどですから(笑)フランクフルトではゾフィテルホテルに1泊しました。夕食はホテル内のレストランで海老とビールで乾杯。ドイツ語が少しでも?話せる連れが一緒だとこうも安心なものなのかと・・・熟睡。

 9/2(土)

 この日は朝から雨でした。夕方のウィーンへのフライトまで、フランクフルトの美術館を訪れました。ホテルからシュテーデル美術研究所までは徒歩15分ほど。駅前の雑多でポルノの店など並ぶ通りを抜けるとマイン川。橋を渡ると左手にシュテーデル美術研究所が見えました。当時はまだ改装前でしたので灰色(雨の日だったので余計に暗い)っぽい地味な外壁の建物で、ここがドイツではベルリン、ミュンヘンの次ぎに充実したコレクションを誇る美術館だとは思えない佇まいでした。

☆シュテーデル美術研究所(初)
 正面の階段を昇って行きますと、この町の誇るゲーテを描いたテッシュバンの「ロ-マ郊外のゲーテ」がまず目につきます。そしてここの宝のファン・エイクの「聖母子」やフェルメールの「地理学者」、カンパン、ボッス、北方の異色の画家バルドゥグ・グリーンのなんとも不思議な聖母子や魔女の絵、クリヴェッリの2枚に分かれた「受胎告知」、ボッティチェリの「若い婦人の肖像」は修復中でした。そして目立たない小部屋にエルスハイマーの「聖十字架の発見と崇拝」の祭壇画がひっそりと飾られていました。この主題のものはこの時が初めてでした。ロンドンのナショナルギャラリーでエルスハイマーの小品「キリストの洗礼」が記憶にあったこともあり、興味深く鑑賞しました。エルスハイマーは銅板に油彩で描いた小品が多いので、あまり目立たないのですが、その繊細な表現は素晴らしいと思います。夜景の描写にも優れているというのも、私好み。

↓エルスハイマー「聖十字架の発見と崇拝の祭壇画」の部分「皇母ヘレナの乗船」(1603-05頃)22.6×15

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↓クラナハ「ヴィーナス」(1532)37×24  小品ながら数多あるヴィーナスの中でも一番美しい。

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↓ボッス「エッケ・ホモ」(1475-80頃)75×61

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↓フェルメール「地理学者」(1669)53×46.6

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↓フレマールの画家(ロベルト・カンパン)「聖母子」(1428)160×68 当初はフレマール修道院に収められていたと伝承されたことから、「フレマールの画家」の作とされてきたのですが、長い間の論争の末、今日では、ロベルト・カンパンの作と確定されたようです。この時求めてきた絵葉書にはまだフレメールのマスターとなっていました。

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↓ルドンもありました。詳細は不明。

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↓上ライン地方の画家「楽園」1410 国際ゴシック様式の珠玉の一枚

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他はルソー、ルノアール、マネ、マッケなどを観賞後、館内のカフェで簡単なランチをとり、同じくマイン川に面した近くのリービークハウス(彫刻館)へ。まだ9月になったばかりですが、雨の日は寒いくらい。リビークハウスで中世やドイツルネッサンスの聖母子像や磔刑像など観た後、

↓「磔刑像(1430年)」南ネーデルランドのリミニのマイスターとして知られている 彫刻家の作。

img149.jpg 

前庭に面したカフェでコーヒータイムで、少し温まりました。また元来た道をホテルへ戻り、荷物をピックアップしてタクシーで空港へ向かいました。

フランクフルト16:45→ ウィーン18:05(ルフトハンザ航空) ウィーンのホテルは西駅まで地下鉄1駅のところ。地下鉄駅から徒歩数分の小じんまりしたホテルに2泊しました。簡素な室内でしたが広い部屋、バスタブつき。スタッフのお兄さんたちも感じ良く、リーズナブルでいいお宿でした。夕食は近所の中華料理屋で。何を食べたかは忘れましたが、味は普通に美味しかったです。ホームステイ先の簡素なドイツ料理に飽きていた娘は和食を食べたかったみたいですが、中華でも充分満足しておりました。


 


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1995秋の旅(3)ウィーン [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/3(日)

 朝は雨、午後近くに晴れてきましたが、9月初めとは思えない気温の低い日でした。この日の午前中は英語の半日ツアーで市内観光。オペラ座前が集合場所で、ウィーンの森を散歩とお茶タイム。そしてシェーンブルク宮殿の観光というルートでした。

↓シェーンブルク宮殿の庭園

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 マリー・テレジアのイエローの外壁が美しい宮殿。内部も見学しましたが記憶が薄れてます。

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 観光バスツアーは終わり市内に戻り解散。オペラ座の近くのレストランで、ウィーン名物のヴィーナーシュニッツェルのランチ。ビールも美味しくいただきました。観光客より地元のお客さんも多いお店で、隣の男性グループが賑やかでした。

↓レストランの前で

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↓モーツアルト像の前で

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 私たち母娘のウィーンでの第一の目的は「ウィーン美術史美術館」です。午後からはここで過ごしました。

☆ウィーン美術史美術館(初)

 1891年に公開美術館として開館。絵画、彫刻、工芸、古代美術など。元来は15世紀に遡るパプスブルク家の蒐集で、特にティロルのフェルディナント大侯とプラハの皇帝ルドルフ二世のコレクションが基礎になっています。前者はチェリーニの塩壺、ラファッエロの「牧場の聖母子」。後者はデューラーとP・ブリューゲル(父)の大コレクションに由来するものです。

ウィ-ン美術史美術館はヨーロッパ、いや世界でも超有名な美術館ですから、広大な内部に膨大なコレクション、もう目がまわりそうでした。初回は主に絵画部門だけを見学。3時間×2日=6時間かかりました。回った順番はすでに記憶にはなく、また初回では超有名な作品がどうしても印象に残ります。ということで、トップはやはり

↓ピーテル・ブリューゲル(父)の「バベルの塔」(1563)114×155 前年訪れたロッテルダムのボイマンスのものに比べると、縦、横ともサイズは2倍くらいあり、画面左下に塔建造を指導したニムロデ王の一団が描かれています。

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エイク以来のネーデルランド絵画史上最後の巨匠といわれるブリューゲル。作品は油彩、テンペラ画は40数枚が現存していますが、ここウィーン美術史美術館のコレクションが一番充実しています。「農民の婚宴」「農民の踊り」「雪中の狩人」など、農民の祝祭風景や日々の営みの描写に惹かれました。

同名の長男ピーテルと次男のヤンも画家として活躍しました。ピーテル(子)のほうは父の模写が多いのですが、ヤンは森の風景、花などを輝く色彩で描き「ビロードのブリューゲル」と呼ばれ、ルーベンスとの共同制作「花輪の聖母子」もあります。

↓ヤン・ブリューゲルの「青い花瓶の花」(1608)66×50.5

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↓アルチンボルド「火/四大元素」(1566)66.5×51  Giuseppe Arcimboldoはミラノ出身のマニエリスムの画家。果物や道具などを組み合わせて人物像を表す奇抜な静物画を描いて有名です。なかでもウィーン美術史美術館のこの一枚は強烈。耳は金羊毛皮勲章、大砲や銃器なども描かれ、反戦的なメッセージもあります。ルドルフ二世により宮廷伯に任じられ活躍。

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 特に楽しみだったフェルメールの「絵画の寓意」は午後からの西日がまともにあたる展示、ガラスが反射して鑑賞するには最悪の状態でした。ルーベンス、クラナハやデューラーなど。半分ほど巡ったあとは

 ↓館内の素敵なカフェでケーキ(初ザッハートルテ)とコーヒーで休憩。

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 帰る途中アルベルティーナ素描館にも寄ってみましたが、終日は開けていないようで、閉まっていました。

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 どうしても日本食が食べたいという娘とオペラ座近くの和食屋で夕食。和食屋さんではオペラ観劇前の日本人がお蕎麦など食べていましたが、夕食にお蕎麦しか食べられないなんて可哀そう~と思ったりして…全然オペラに関心がなかった頃でしたから(笑)。地下鉄でホテルに戻りましたが、パリのメトロに比べると、治安は格段に良いウィーンでした。明日からは4泊の小旅行に出かけますので、荷造りなどして就寝。


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1995秋の旅(4)ウィーン~プラハ [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/4(月)

 プラハとブダペストにそれぞれ2泊した後は、再び同じホテルに戻りますので、スーツケースを預けてチェックアウト。集合場所はオペラ座の前で8:00に出発しましたが、途中、いくつかのホテルにも立ち寄り何人かのお客さんをピックアップ。9時ごろに市内を抜け、一路チェコ国境まで走りました。枯れたひまわり畑が続く平野はすでに秋の気配が濃厚。

 ガイドさんは40代くらいの男性で、ドイツ語、英語が主ですが、フランス語、イタリア語も話せました。同行のメンバーはインターナショナルで、遠くはブラジル、南ア連邦、USA、イスラエルから比較的近いフランス、イタリアまで二十数名の参加者でした。国境では銃を肩にかけた怖い顔の兵士さんがバスに乗り込んできて、パスポートを預かり、しばらくしてからOkがでてバスは動きだしました。チェコが民主化されてから数年たっていましたが、今では考えられないほどの緊張感がまだありました。パスポートチェックの間、ここの窓口で両替しましたが、その時パスポートを持っていなかったので、T/Cは×。マルクの現金を持っていたので、なんとかチェコの現金をゲット。

 プラハに着いたのは午後2時ころになっていました。ホテル内のカフェでランチを各自でとった後、皆で市内観光へ。日本人のせかせかツアーと違ってのんびりしたものと思っていたら大間違い。歩く歩く・・・旧市街(マラー・ストラナ地区)を3時間かけて巡りました。現地ガイドは中年の女性で、日本大使館の前では壁をポリッシュし過ぎて、せっかくの美しい館が台無しだとか、フランス大使館の前では「ノー・ヌークリア」(当時はフランスの核兵器開発で騒がしかった)とか言って辛辣、パリから来たご夫婦は小さくなっていました。

↓プラハの旧市街で。

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プラハ3.jpeg 

↓ 左はカレル橋と右は天文時計の傍で。 

プラハ2.jpeg  プラハ4.jpeg

 プラハも寒くてダウンのジャケットを着ている人も居るほど。でも私たちはお天気には恵まれていました。1週間前の同じコースのツアーは大雨と風でひどい天候だったとか。最後はカレル橋を渡り、迎えに来たバスに乗ってホテルへ帰りました。夕食はホテル内のレストランで。同じテーブルにイスラエルからみえたお医者さん夫婦。そろって英語もフランス語も堪能で、気配りも素敵なカップルでした。プラハの町もですが同行のメンバーにも興味深々でした。市の中心から少し離れたデプロマットホテル(地下鉄Dejvicka駅近く)に2泊しました。


タグ:プラハ
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1995秋の旅(5) [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/5(火)

 この日からは晴れて、絶好の旅日和になりました。午前中はプラハ城を中心とした観光で、始めにストラホフ修道院内の図書館を見学しました。現地ガイドのおばさんは今日も絶好調。分かりやすい英語で案内してくれました。

☆ストラホフ修道院(主に図書館)

 図書室に入る前の小さな展示室はルドルフ二世の蒐集室。ガラスケースに妙な黒い鳥のミイラがあり、ガイドさんの説明ではあの絶滅した「ドードー」とか・・・。でもそんな貴重なものがこんなところに?半信半疑でした。地球の歩き方にも載ってませんでしたし・・・。

でも検索では↓のような説明があり、あの時目にしたのはやはり本物の剥製で、しかも完全なものは世界で唯一だそうです。黒いのは灰で覆っているため。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BC

さて、ストラホフ修道院はプレモンストレー会という男性の修道会によって1142年に創立。中世時代からプレモンストラー派は知識や勉強に重きをおき、本を書いたり、印刷したり、蒐集したりしました。映画の「薔薇の名前」のシーンを思い起こさせる図書室ホール。古く美しいバロック様式の図書館としてかなり知られています。宝石をちりばめた豪華装丁の写本など展示されていました。

↓カメラ禁止のため絵葉書です。

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 修道院内部や回廊などは見学不可?だったのか、単に忘れてしまったのか・・・。

↓王宮の前で。左に見える白い建物が王宮美術館なのですが、ツアーでは寄らずにこのまま王宮内へ。結局ここに戻ることなくプラハを離れたのが、今でも心残りです。

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↓プラハ城の聖ヴィート大聖堂  右の写真がアール・ヌーヴォーのデザイナー、アルフォンソ・ミュシャのデザインしたステンドグラスです。

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 この日は晴天の観光日和ということで、どこもツーリストでごった返し。せっかくの黄金の小路もカフカの家や錬金術師の家も人がいっぱいで写真も撮れません。おまけにお土産物屋さんになってますし・・・風情無しでした。

↓プラハ城付近からの眺望

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 1968年に起こったチェコの変革運動「プラハの春」、ソ連の軍事介入のTVニュースは衝撃でした。あの舞台になったヴァーツラフ広場で、ガイドさんの熱のこもった説明を聞いた後、ここでツアーは解散しました。現地ガイドのおばさんとお別れの挨拶して、チップを渡したら、「日本人はリッチだから、プラハでたくさんお金使ってね!」ですって(汗)。

娘と地図を見ながら午後からのフリータイムでの過ごし方をいろいろ考えながら歩いていましたら、同じツアーのメンバーで韓国人の女性(一人参加)が話しかけてきました。幼い時に家族とともに北朝鮮(だと思います)から米国に移民したそうです。ワシントンDCの某有名ブランドショップで働いていて、日本人が大勢買い物に来るそうです。ブランド物を1個も持たない私たちとは無縁です。。。私の拙い英語を30年もアメリカに住んでいる母親(同じ韓国人としか付き合わない)より上手と言ってくれたので、ランチ一緒にいかが?と誘って、カレル橋の近くのカジュアルな食堂で昼食。この後はお別れして、娘と二人でヴルタヴァ川右岸の旧市街(スタレー・ムニェスト)とユダヤ人地区を歩きました。

旧市街広場から北の方角にはユダヤ人が居住していた地区があります。1270年頃に建てられたシナゴーグは中央ヨーロッパにおいて最古と言われています。入口で男性は頭に丸い帽子を乗せられますが、それが嫌で入るのをやめた方もました。

↓旧新シナゴーグ  外観の写真がないのでNETから拝借しました。1995年当時はこんなに綺麗ではなかったですが・・・。

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↓内部は写真禁止だったのに気が付かず写してしまった貴重な一枚。内部の壁に1389年に起こった反ユダヤ暴動で殺されたユダヤ人の血痕が残されています。

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 また、同じバスツアーで何人かのイスラエル人が参加者していたのですが、プラハはユダヤ人にとって重要な巡礼地でもあるようです。ユダヤ人の墓地には寄らなかったのですが↓NETから拝借した写真です。

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 天文時計の見えるカフェでお茶して、その安いのにびっくり!日本円で100円くらい。日本までの葉書の切手も24円とかでした。この物価の安いのもプラハの魅力。ツーリストの多さに納得でした。

↓天文時計の見える広場とカレル橋で。

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 モーツアルト縁のエステート劇場やカレル橋ももう一度見に行ったりしているうちに時間切れ。お土産は魔法使いのおばあさんのマリオネット。ボヘミアン・グラスは高価なうえ重いので、あきらめ・・・。地下鉄(20円)でホテルに戻りました。夕食は旧市街のチェコ風ビヤホールで。お団子のスープが美味。チェコ風ビールは苦くて×でした。ビールの種類は多かったので、選択ミスだったのでしょう。この日はプラハの街歩きを楽しんだのですが、翌日は大変なことになってしまいました。


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1995秋の旅(6&7)プラハ~ブダペスト [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/6(水) 

 プラハのホテルを7:30に出発して、ハンガリーの首都ブダペストへ向かいました。ところが途中通過のスロバキアに入ったところで、バスのドライバーさんが体調不良で、運転を続けることができなくなりました。代わりの運転手さんがウィーンから来るまで、ここで待つことになりました。携帯電話がなかなか繋がらなかったり・・・非番だからと断られたり・・・ドタバタして、ようやく代わりの運転手さんが来たのがなんと!数時間後になってしまったのです。このトラブルで一番いらいらしたのは私たち日本人だったかも。運転手さんは青い顔をして横になってはいますが、救急車を呼ぶほどでもないのですが、他の方たちはまず病人の心配、そして少しも怒らず平常心で待ち続けます。これには感心しきりでした。ドライブインのところでストップしたので、食べるものやトイレの心配のなかったのが幸いでしたが、ほとほと疲れました。

ようやく出発したのですが、ハンガリーの入国審査ではブラジル人と日本人のパスポート・チェックに時間がかかり、パスポートが戻ってきません。30分も待ったりしているうちに日が暮れてきました。ブラジルからの中年の女性はここでは憤慨していました。「私たちと日本人のどこが問題だっていうの!」って。彼女たちは教員をしているそうで、教え子の子供たちにお土産をいっぱい買っていました。パスポート・コントロールで一番問題なしだったのはやはりというべきか米国人。自慢してましたね~「これで世界中どこでもOK」 とか言って。

 ブダペストのホテルに着いたのは夜9:30にもなっていました。ホテルのレストランで遅い夕食。プラハからブダペストは地図上では数百キロの距離ですが、通常の倍以上かかっての移動でした。疲労困憊で就寝。メルキュール・コロナホテル2泊。

9/7(木)

 前日の疲れも熟睡したので回復したようです。嫌なことは忘れて、プラハに続いて中欧のハンガリーの首都ブダペスト観光を楽しみました。ブダペストの街を南北に流れるドナウ川が西ブダ側と東のペスト側に分けています。ブダ側は丘陵地帯で、王宮の丘には中世の面影の残りる建物や街並み、そして素晴らしい眺望が広がります。ご存知のようにハンガリーはパプスブルク王朝の支配を200年受け、独立戦争の敗北から国は疲弊。大戦後はソ連の社会主義体制に組み込まれ、屈辱と波乱に満ちた歴史をたどってきました。1989年のソビエト体制変革までにも徐々に自由化を進めて行ったハンガリーの役割は大きかったですし、スムーズに民主的な政治に移行できたのは誇りでしょう。

↓王宮の丘からの眺め。ドナウの向こうに国会議事堂が見えました。

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↓鎖橋の方面

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↓聖マーチャーシュ教会/原形は13世紀ゴシック様式で建てられましたが、16世紀のトルコ占領時にはモスクに改装されていた時もあったそうです。17世紀後半のトルコ撤退後はバロックに様式で修復。また後にはゴシック様式で改築。

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↓漁夫の砦/教会の背後は城壁のテラスになっていて、白い石造りの丸い塔や回廊が並んでいます。

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 ドナウ川を渡ってペスト側の観光は国会議事堂と英雄広場へ。

↓英雄広場で記念撮影。

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ここでは衛兵の交代セレモニーの見学をしましたが、私が気になったのは広場に向かって左に建つブダペスト国立西洋美術館・・・でもここには寄りませんでしたので、このとき現地ガイドさんに英雄広場に来る交通手段をききました。Mラインのステーションがあるからとのこと。てっきり地下鉄と思いこんでしまったのです。

 ランチはハンガリースタイルの素敵な内装のレストランで、郷土料理のメニューもグヤーシュなど美味。雰囲気も良くて、ツアーのメンバーとも打ち解けて楽しいお食事でした。フレンドリーで何かにつけてサンキューを忘れない笑顔のアメリカ人の中年のご夫婦。共働きだそうですが夏休みはヨーロッパ巡りが楽しみだそうです。アメリカ人は長期の休暇はリゾートへ行く人が多いので、ご本人たちも少数派かもと笑ってらっしゃいました。

 さてランチの後はお待ちかねのフリータイム。ブダペストは治安も問題なさそうなので、娘とは別行動で、私は西洋美術館を目指して、近くの地下鉄の駅へ。ところが地図にもあるM○○ラインのしるしを辿っていくと地上に出てしまいます。「あれれ?」困って迷っている私に、何人かが声をかけてくれて親切でした。そのなかで英語のできる女性の方のアウトブスという言葉でようやく分かりました。Mラインはバス路線でステーションはバス停だったのです。ということでようやく目指す美術館に着いたのは閉館の1時間前でした。下の写真は朝、英雄広場から撮ったもので、観光バスがズラリと並んでいます。午後遅くに来たときは衛兵の交代セレモニーもないためか、閑散としていました。

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焦って入館しイタリア絵画の展示室にまっしぐら~。お目当ての絵画は

↓カルロ・クリヴェッリ「玉座の聖母子」(1476)106.5×56 アスコリ・ピチエーノのサン・ドミニコ聖堂旧蔵。「殉教者聖ぺトルス多翼祭壇画」の中央パネル。全部で5枚のパネルはブダペストとロンドンに分散。数ある玉座の聖母子のひとつです。茶色系の落ち着いた色調で、全般にエレガントな雰囲気をたたえ、聖母の眼差しがクリヴェッリの特徴の怜悧で気品ある美しさ。幼子イエスは梨を持つ。台座に署名あり。  

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 参考書の「西洋絵画作品名辞典」にこの作品が、ブダペストにあると知ってから、楽しみにしていました。当時はあまり知られていませんでしたから、このチャンスに観ることができて本当に嬉しかったです。他にも記憶に残った作品をご紹介します。(画像は美術館のHPから)

↓ゴヤ「刀とぎ屋」(1808-12)68×150.5

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↓グレコ「受胎告知」(1600頃)91×66.5

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↓クラナハ「ヨハネの首を持つサロメ」(1530頃)87×58

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 もう閉館まじかなのに、次女が来館。急いで見どころを案内して回りました。係員が近くに現代アートの美術館もあるのでぜひ行ってみてと勧められたのですが、もう明日発つので・・・。バスのドライバーさんの事件があったので、半日ロス。ブダペストはたったの一日しか時間のなかったのは本当に残念でした。日本でこういうことがあったら、返金の対象になると思うのですが、そういう話は一切なくて、なんとなく割り切れませんでした。

夜は大きなハンガリー酒場で民族舞踊や歌などを聴きながら、皆で食事&記念撮影をしました。それぞれの国民性が如実にあらわれていて面白い写真です。うちイスラエルのお医者さん夫婦はこの日患者さんの具合が悪くなったと急遽帰国。フランス人のご夫婦は別のレストランに行ったので写真に写ってません。一番グループになじまなかったのはフランス人夫婦で「お高く留まってる」みたいな感じという人もいて。最後の夜だし・・・(笑)

↓集合写真(私たち以外は全員外国人だからクレームはでないでしょう)。前列左、足を組んでる4人は明るくかっこいいイタリア人たち、右にユダヤ人のちびっこ夫婦、その右端がフレンドリーなアメリカ人夫婦。後列もアメリカ、韓国、日本、イスラエル、ブラジル、南ア連邦からの参加者たち。

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最後はご夫婦の方たちのダンスもあって、それがとてもオリジナリティにあふれた面白さ。可笑しくって娘と涙が出るほど笑いました。これまでは一概に国民性って言えないなと思っていましたが、この時はそれぞれがナショナリティにあふれた存在なのだと強く認識させられた体験になりました。皆いろいろな国で生まれて育って、いろいろな人生を背負って生きてきたけれど・・・ここでは皆明るく楽しい宵を過ごしています・・・なんかいいな~。旅はいいな~。ホッコリとした気持ちで迎えのバスに乗りホテルに戻りました。

 


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1995秋の旅(8)ブダペスト~ウィーン [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/8(金)

 ブダペストからウィーンに戻る途中は回り道をしてバラトン湖に寄り道。ハンガリーで一番大きな湖を半周して、ティハ二の観光をしました。ティハ二はバラトン湖に大きく突き出た高台の半島で、湖畔に映える美しい修道院が建っています。ほとんど写真が残っていないのは、時々小雨が降ったりのあいにくのお天気だったから?

↓絵葉書ですがティハ二の修道院教会。隣接した博物館も見学しました。原形の教会は1055年に建てられたそうですが現在のは1754年に再建されたバロック様式の建築。

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↓淡いイエローの教会前で

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丘の下のティハ二の街でランチやショッピングをした後、ウィーンに帰りました。バスのトラブルのあったせいで元気のなかったガイドさんもウィーンに近づくにつれて、饒舌になり元気になって、皆に冷やかされたり、最後まで笑い声にに包まれた、楽しいツアーでした。オペラ座の前で解散。ホテルに戻り荷物を置いてから、夕食を兼ねてケルンストラー通り付近の散策。ホテルヨーロッパのレストランで、久しぶりに二人っきりの食事でした。アナトルホテル2泊。


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1995秋の旅(9)ウィーン [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/9(土)

 午前中はウィーン西駅に行き、明日のミュンヘンまでの特急(モーツアルト号)の予約を済ませ、トラムに乗って南駅へ。ここからベルべデーレの上宮にあるオーストリア美術館は徒歩です。

☆オーストリア美術館(初)

建物の修理中だったためか、エゴン・シーレが「家族」の1点だけでがっかり。でもクリムトは大層充実していましたので、今考えるとシーレはどこかに貸し出し中だったのかもしれません。

↓クリムト「ヘレーネ・クリムト」(1899)60×40 モデルは亡くなった弟エルンストの娘

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↓クリムト「ソニア・クニプス」(1898)145×145/夫人肖像画における最初の正方形の大作

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↓クリムト「接吻」(1907-08)180×180 (絵葉書)

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↓クリムト「庭の風景」(1906)110×110  正方形、高い位置からの視点で描かれたユニークな風景画。

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↓一番奥の小部屋に飾られたクリムトの「アデーレ・ブロッホ=バウアー」1907 138×138

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↓ココシュカ「プラハ(港)」(1936)90×116  プラハに行ってきたばかりでしたので、印象に残りました。

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↓美術館のあるベルべデーレ上宮からウィーンの中心街を望む。

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 オペラ座近くまで戻り、再びアルベルティーナ素描館に寄ってみたのですが閉館。改築前だったはずですが・・・。近くの画廊でオペラ座の版画を買ったり、カフェ・モーツアルトでコーヒータイム。ランチは近くの日本料理屋(星岡キッコーマン)でお寿司、美味しくて満足。ここはこの後ウィーンに行くたび寄りましたが、だんだん味もサービスも悪くなって…今もあるのかしら?午後からはウィーン美術史美術館へ。

☆ウィーン美術史美術館(2)

 前回の残りをイタリア絵画を中心に3時間ほどかけて鑑賞しました。パルミジャミーノ「凸面鏡の自画像」「弓を作るキューピッド」やラファエロ、カラヴァッジョなど綺羅星のごとく並ぶ展示室を巡りました。

↓ティツィアーノ「イザべラ・デステ」(1534-36)102×64  マントヴァ候フランチェスコ・ゴンザーカ夫人。候妃は当時62歳でしたが、若いころの肖像画に基づいて製作。

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↓コレッジョ「イオ」と「ガニュメデス」(1531頃)163.5×74&163.5×70.5 

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 ユピテルの愛の物語4点のうちの2点。優雅な官能美の世界を描き、コレッジョの最高傑作として知られています。館内で撮った写真は色が変なので絵葉書をスキャンしました。

他の2点は「ダナエ」がローマのボルゲーゼ美術館、「レダ」がベルリン絵画ギャラリーに収蔵されています。

コレッジョ1.jpeg コレッジョ2.jpeg 

↓ジョルジョーネ「3人の哲学者」(1505-07頃) 123.5×144.5

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 ケルントナー通りを歩いてましたら、バスツアーで一緒だったアメリカ人のご夫婦と遭遇~!明日はザルツブルクに移動するそうです。この時はまさか翌日の列車のキャビンでも隣席になるとは思ってなくて、「よい旅を!」と言ってお別れ。

夕食はなかなか適当なところが見つからなくて、結局「天満屋」で和食。この日もオペラ観劇の日本人が多数歩いていました。後から気が付いたのですが、9月初めはウィーンのオペラシーズンの開幕時期だったのです。

↓バスツアーの疲れがまだ残っていたようですが、頑張って王宮の付近なども散策しました。

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 明日は旅の最後の宿泊地ミュンヘンへ列車で移動します。荷物を整理して就寝。


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1995秋の旅(10)ウィーン~ミュンヘン [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/10(日) ウィーン西駅9:00→ミュンヘン中央駅13:30

↓ウィーン西駅で、出発前。

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 同じコンパートメントにツアーで一緒だったアメリカ人のご夫妻が!ツアーの後、ウィーンの街角でもばったりお会いしましたから、偶然が重なりました。フレンドリーな方たちでザルツブルクで降車されるまで、片言のお喋りでも楽しく過ごせました。ランチは食堂車で、ザルツブルク付近の美しい景色を眺めながら。一度は来たいわね・・・まさかこの後、オペラにはまって何度もザルツブルク詣でをするとは、夢にも思わなかった頃です。

そのオペラがらみの話ですが、ここで私の人生を変えた?出会いがありました。ウィーンのシーズン・オープニング帰りの日本人の方が隣のコンパートメントに乗り合わせていました。
その方から「せっかくヨーロッパを廻っていて、オペラを観ないのはとても惜しいことですよ」と云われ、その時は「オペラ?ウ~ン」と言葉を濁す私でした。私の周りにはオペラを趣味にする友人は皆無でしたから。でも、その後はっきりした動機もないまま、結局はその方の強いお薦めが心に残っていたのでしょう。翌年春新聞で偶然目に留まった「道新オペラ教室」に入会したのです。

 さて、ミュンヘン中央駅に到着。ホテルはシティ・ヒルトンに3泊しました。Sバーンの地下鉄駅に直結の便利で大型のホテルでした。レセプションに日本人の女性がいて、日帰りツアーの相談にも乗っていただけました。日本人の観光客が多かった頃です。今は中国人に代わったかも・・・。

部屋でひと休みしてから、タクシーでアルテ・ピナコテークへ。行き先を告げると、「アルテ・ピナコテークは修復中だよ。でも主な作品はノイエのほうで見られるよ」とのこと・・・。確かにアルテ収蔵の有名な作品はほぼ見学できました。しかしノイエのほうは貸し出ししているのか、作品数は極端に少なかったと記憶しています。

☆アルテ・ピナコテークAlte Pinakothek(初) 臨時展示場のノイエ・ピナコテークにて

 中世から18世紀にいたるヨーロッパのオールド・マスターの作品を収蔵。コレクションは16世紀のバイエルン公から始まりルードヴィヒ一世によって1825年に開館。第二次大戦での損害を受けたため、90年代半ばの大改修(訪問時がまさにその時)を経て、1998年夏から再オープンされました。

どういう順序で巡ったのかはすでに記憶にありませんが、ここにはアルトドルファーAlbrech Altdorfer(独1480頃~1538)の傑作があり、それらを無事にみることができて、まずはホッとしました。近代風景画の先駆者として知られるドナウ派の画家アルトドルファーの作品から(絵葉書)。

「アレクサンドロス大王の戦い」1529  158×120 BC333年のイッソスの戦いを描いたもの。俯瞰図の視点と気の遠くなるような細密描写に圧倒されます。

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↓アルトドルファー「聖母の誕生」1520頃 140×130 教会建築への関心とその内部でのマリア誕生。円を描く天使たちも印象的。

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そして、レンブラント!アルテ・ピナコテークの「キリスト受難伝」は必見です。5点のうちの2点に明らかに画家自身の姿が描きこまれています。劇的な光のあて方といい、臨場感あふれる作品は他の宗教画(カラヴァッジョを除く)とは一線を画するものと思いました。

↓「キリスト昇架」1634頃 96×72

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↓「十字架降下」1634頃 89×65

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 まだまだ観たりなかったのですが、明後日に再度来館の予定なので退出。早めの夕食を中央駅近くの中華料理店で済ませ、ホテルに戻りました。


1995秋の旅(11)ミュンヘン [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/11(月)

 ミュンヘンに来てパスすることはできないところ、超有名観光地といえば「ノイシュヴァンシュタイン城」ですね!というわけで、日本語のツアーが16000円、英語のツアーが5250円というので、自分の英語力はともかく、一応2級持っている次女を頼りに、迷わず英語ツアーにしました。一日がかりでリンダーホフ城~アマガウ~ノイシュヴァンシュタイン城を回りました。ホーエンシュヴァンガウ城は眺めるだけ。ともかく日本人が多くて驚くほど。購入した絵葉書にも日本語が書かれています。

↓リンダーホフ城にて

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↓アマガウにて。壁画で飾られた家が多く、いかにも南ドイツの美しい村って感じ。ここのクリスマス用品専門店でドイツの木彫りのオーナメント(蝋燭を付けると回る)を買いました。帰国まで手に提げて大事に持ち帰りました。現在もクリスマスには飾っています。

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↓ノイシュバンシュタイン城周辺にて

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 ノイシュバンシュタイン城までは馬車で登りました。このお城といえば思い出すのがヴィスコンティの映画『ルードヴィヒ-神々のたそがれ』です。私のささやかな映画歴ですが、ベスト10に入れていますから、映画の舞台になったこの城を訪れるのはとても楽しみでした。ルードヴィヒ二世の狂気に満ちた築城熱とオペラ熱がひしひしと伝わってきました。城内はカメラ禁止だったので写真はありません。華麗な広間などを巡りましたが、

↓なかで一番印象に残ったのは王の豪華なベット(NETから拝借)。天蓋を飾るゴシック調の木彫・・・でも実際ここに泊まったのは102日だったとか。

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↓ヨーロッパのお城は数あれど、ロマンティックな外観美はぴか一でしょう。(絵葉書)

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  ノイシュヴァンシュタイン城から小さく見えたホーエンシュヴァンガウ城はルードヴィヒが幼少のころに住んでいたそうです。曇り空でパッとしない天候でしたが、雨にあたることもなくミュンヘンに戻りました。夕食はホテルのレストランで、ビールと料理は一皿ずつ注文して、軽く済ませました。


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1995秋の旅(12.13.14)ミュンヘン&帰国 [1995秋ヨーロッパ次女と二人旅(3)]

9/11(月)

 午前中は一昨日の続きでノイエに移転中のアルテ・ピナコテークのコレクションを観に行きました。次女の友人(哲学科)の強いお勧めだというので、イタリア絵画部門に直行。それは

↓フィリッポ・リッピの「受胎告知」1450頃  203×186 フィレンツェのある女子修道院旧蔵のため?背景の建築は修道院の閉ざされた回廊を思わされます。

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↓上の作品から15年ほど後に描かれたリッピ後期の「聖母子」1465年頃 76×54

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↓ボッティチェリ「哀悼」1490以後 140×207  ボッティチェリ後期の作品はサヴォナローラの悔恨についての説教が画家に影響を及ぼし、厳粛で禁欲的な表現になっています。

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 他のイタリア絵画も充実していて、ジョット、レオナルド、ラファエロ、シニョレッリなど・・・。

☆ノイエ・ピナコテークNeue Pinakothek(初)

 バイエルン王ルードヴィヒⅠ世はアルテ・ピナコテークに続いて同時代のモダン芸術専用の美術館を企画。完成は1853年でした。このノイエも第二次大戦で破壊されましたので、戦後新しい美術館の建築が始り1981年にオープン。18世紀から20世紀初めにかけての絵画、彫刻が展示されています。アルテの改修が終わってから現代アートのピナコテーク・デア・モデルネの建設が始まったのでしょう。

ノイエ・ピナコテークのコレクションで印象に残ったのは↓クリムトの「マルガレートの肖像」1905 180×90  背景に擬似的装飾壁面が用いられた最初の肖像画だそうです。

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↓クノップフの「私は私自身に扉を閉ざす」1891 72×140

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 ランチはノイエ・ピナコテークのカフェで、ドイツのイタリアンはどうかな?と思いましたが、ピッツアが意外に美味しかったです。この後は次女と別れて、独りで地図ではそう離れていないレンバッハハウスに向かいました。人通りの少ない道の向こうからラフな服装の若い男性が何人か歩いてきます。もろに怖いと思いましたが、途中の建物に入っていったのでほっ!その建物をみたらインダストリなんとか大学の看板・・・名門のミュンヘン工科大学、勝手に怖がっていた私でした。徒歩10分くらいで瀟洒な館風の美術館↓に到着(絵葉書)

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☆レンバッハ・ハウス美術館(初)

カンディンスキーのコレクションで有名な美術館です。モスクワで生を受けたカンディンスキーは1896年30歳の時ミュンヘンに移住。この地でユーゲント・シュティールに接した後、1911年に青騎士(ブラウエ・ライター)を結成。バウハウスの教授を勤めた後パリに移住し、華麗な色彩とフォルムの交響楽的な非対象絵画を確立しました。

ここには具象的な初期の作品から晩年に近い作品まで収集、展示されています。
抽象画は難しいと思われている方や、コンポジションシリーズをいきなり観ても理解できない方(私も同じです)、この美術館でぐんとカンディンスキーの世界に近づくことができます。その意味でもカンディンスキーばかりでなく現代アート鑑賞にはパリのピカソ美術館とともに欠かせない美術館と思います。

何年かの後、札幌の芸術の森美術館でカンディンスキーの恋人だった画家ガブリエーレ・ミュンターを中心とした展覧会がありました。ここのミュンターの肖像画を含め何点か来ていて、初めてカンディンスキーとミュンターの馴れ初めやムルナウでの共同生活そして破綻にいたった恋愛のいきさつを知りました。ここのコレクションはそのミュンターが長年秘匿し、保護してきた若き日のカンディンスキーやヤウレンスキーなどの作品を寄贈したものが中心になっています。「青騎士」派の活動の地でありながら、作品がなかったミュンヘンに「青騎士」派の美術館が1957年に誕生したのです。

↓カンディンスキー「ガブリエル・ミュンター」1905 45×45

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↓カンディンスキー「馬上の二人」1907 55×50.5 故郷のロシアの風景を懐かしんで描いたのでしょうか。光の粒子のような点描のきらめく、美しいメルヘン調の絵画に魅了されました。カンディンスキーの初期遍歴時代の作品。

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↓カンディンスキー「ムルナウ-塔の見える風景」

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 ここで、青騎士(ブラウエ・ライター)派の仲間であるマッケやマルク、ヤウレンスキーなどの作品にも初お目見え、その充実したコレクションに、驚きつつ鑑賞しました。

 トラムでカールス・プラッツに戻り、次女との待ち合わせ場所の教会へ。ところが教会を勘違い、お互いに違う(近くの)教会で待っていたのですが、この通りは人も多くすれ違ってしまいました。

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↓ その教会が2つある通り(絵葉書)

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 独りで街歩きをして、エルメスのスカーフなどショッピング。旅の最後の夕食はホテルのオリエンタル・ブッフェで。お寿司やアジアン・フードが美味しかったです。

9/13(水)

  最後の日になって、とうとう雨になりました。午前中は外出もしないで、ゆっくり帰り支度のパッキングなどして過ごしました。正午にチェックアウト、タクシーで空港へ。空港のレストランでランチをしたりして過ごし、15:30発の関空便で帰国。東京便の次女とはここで別れました。淋しそうな次女に、また行こうね!とつい言ってしまって・・・。

9/14(木)

 関空10:25/11:55→千歳13:15  夫が空港まで迎えに来てくれて、楽々帰宅できました。隣家の義母も義父亡き後の寂しさはあったと思いますが、いたって元気なころ。ウィーン土産の老眼メガネ入れを喜んでくれてました。 終わります。



 


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