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1991初夏の旅(12)ベローナ~マントヴァ~ミラノ [1991春イタリア・ルネッサンスの旅]

5/24(金)

ミラノ/Hotel dei Cavalieli 2泊  

 ロミオとジュリエットの街ベローナを離れ、旅の最後の宿泊地ミラノへ。途中マントヴァに寄りました。

↓ ドゥカレ宮殿の前で。自由行動もできるというので、街の散策へ。宮殿にはマンテーニャの壁画がありますが、このときは見学をパスして、気ままに歩くことにしました。

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まだオペラを知らないときで、何年かあとで、ヴェルディの「リゴリット」を映像で観て、初めてマントヴァが舞台と気がつきました。リゴレットは架空の物語ですが、雰囲気がぴったり。↓湖の向こうに見えるマントヴァ(絵葉書)の街

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↓ 聖アンドレア教会の近くに小さな円形の建物がありました。イタリア・ロマネスクの先輩Kikukoさんが訪問されたときの記事によりますと、下記のように説明されています。時計塔は左の修復中の建物でしょうか?

<中世後期のたたずまいを留めるエルベ広場の一角に建つサン・ロレンツォ円形聖堂は、ロンバルディアを代表する、数少ない集中式の円形聖堂です。隣の時計塔は1473年にルカ・ファンチェッリが建てたもので、バルトロメオ・マンフレーディが同じ年に製作した天文学と占星術を駆使した時計が修復されて動いています。>

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このときは内部には入れませんでしたので、KikukoさんのHPを参照されてください。

http://belcanto.music.coocan.jp/2009/2010-viaggio1-1.htm

 

↓ 宮殿の広場のバールでお茶をしていると、集合の時間になりました。ドゥカレ宮殿内を見学しなかったのは、後悔することもありますが、少しずつですがこうして自由に行動したことの結果がのちの個人旅行の原動力に繋がったことは確かなようです。

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 メッツオ湖やインフォり湖を眺めて、マントヴァのルネッサンス芸術に大いに力を発揮した美しきイザべラ・デステを想いつ西へ走り、途中のドライブインのようなレストランで昼食、そしてミラノへ。

 ミラノの半日観光では

↓スフォルツェスコ城内の市立美術館でミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」とダ・ヴィンチの装飾した部屋を見学しました。

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↓ ドゥオーモとエマニエル2世アーケード

日本はバブルがはじけたと言え、まだまだこのアーケードのプラダなどで買い物する人は多かったです。私もつられて?娘たちに(これが最後かもと思って)バックや靴などのおみやげを買い、バブリーな母しちゃいました。

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↓ 夕方のドゥオーモ広場

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 ↓ アーケードを抜けると、スカラ座広場(ミケランジェロ像)

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↓ オペラにはまって何度もスカラ座に来るようになるとは露思わず、このころは無邪気ですな(笑)

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 この後は夕食の時間まで自由行動になり、また独りでぶらぶらとドゥオーモ広場まで行ってみました。ホテルから数分なので余裕で帰れる距離でしたが、ドゥオーモ広場からは道路が放射状に何本かあるのですが、一本間違えてしまいました。歩いても、ドンドン帰るべきホテルから離れてしまいます。10分ほど歩いて、間違いに気がつき、焦りました。途中で道を曲がったものの余計に時間がかかり、ついに集合に間に合わなくなりました。近いからと渋るTAXIに半ば無理やり乗り込んでホテルへ。ところが、目の前からツアーのバスは発車して行ってしまいました。ホテルに入るとレセプションの人がみなさんが向かったレストランの地図をくれて、タクシーで行きなさいと行ってくれましたが、すっかり疲れ果ててしまったので、ホテルのレストランで食事をしたいと添乗員さんに連絡してもらいました。

 独りの夕食はメロンと生ハムの前菜とパスタをオーダー。生ハムとメロンは別々のお皿で山盛りで供され、ゆうに5人前はありました。好物ですしせっせといただきましたが、ギブアップ。パスタも少々いただいて退散。翌日ツアーの皆さんに謝り、何を独りで食べたのか聞かれたので、このことを話すと羨ましがられました(笑)。ツアーの夕食は美味しくなかったとかで・・・。

 私は方向音痴でもないですし、迷うことなどないと自信過剰でした。このとき、ツアーだと少しのミスや時間の遅れでも他人に迷惑をかけるということが身に染みました。そして、多少の過ちは問題のない個人旅行が良いな~という結論に達して・・・。まだこれが初めてのヨーロッパというのにです(汗)。

 ☆イタリアの美術館

(12)スフォルツェスコ城市立美術館

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1991初夏の旅(13、14,15)ミラノ(パヴィア)&帰国 [1991春イタリア・ルネッサンスの旅]

5/25(土)

 午前中はミラノ市内のサンタ・マリア・デッラ・グラーツィエ教会の見学でした。教会の前にミラノのガイド本を売る人たちが「1000円!シェンエン!」と日本語で。

↓ サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の全景(絵葉書)。

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↓ 教会左のベージュの建物から入ってダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を鑑賞。当時はまだ修復の最中でした(完成は1999)。不定期に閉める場合もあったので、足場がかかって少し邪魔な感じでしたが、なんとか観ることができてラッキーでした。絵葉書よりも色が褪せて見えましたが、小さな元食堂だった部屋の壁一面に描かれた大作(420×910)です。この後何度かミラノには行きましたが、予約制になったこともあり再訪していません。

 

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 そして、ミラノからパヴィアの修道院へ移動。La Certosa di Paviaはパヴィアの街からは8Kほど北にあります。ロマネスク様式のシトー派の後に起こったカルトゥジオ会の修道院として14世紀に創立されました。修道士の生活する個室が機能的に配置され、瞑想と静寂の中で祈りに没頭できる環境になっています。シトー派の修道士たちが大部屋で寝起きを共にしていたとは異なっています。

↓ キオストロ・グランデ(大回廊)を取り囲むように修道士たちの個室が並んでいます。

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↓ こちらはキオストロ・ピッコロと呼ばれる小さな回廊です。

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↓ 絵葉書

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↓ 修道院教会前で。右の建物にショップがあり、修道士さんたちが作ったチョコレートを売っていましたので、お土産に購入。

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↓ このとき頂いたパンフレット。教会内部にはLudovico il MoroとBeatrice d'Esteのお墓やベルゴニョーネやペルジーノなどの壁画があります。

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 午後はミラノに戻り自由行動になりました。ブレラ美術館は修復中でかなりの展示室が閉まっているというので、諦めてドゥオーモの屋上に登ったり↓、ショッピングしたりして過ごしました。ブレラ美術館はまたの機会に・・・いつのまにか必ずミラノはイタリアは再訪するつもりになっていました。

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 旅の最後の晩餐はGIANNINOで。今はどうかわかりませんが、当時はミラノの一流レストランでした。

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5/26(日)ミラノ→5/27(月)成田→札幌

 留守宅には夫と娘たち(19歳と15歳)、それに愛犬ちょび(ハスキー)が首を長くして?待っていました。隣家には夫の両親もまだ健在だったころです。旅はもちろんですがあのころの家族もまた懐かしいです。。。遠い目。

 

 

 

 

 

 

 


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1992春の旅(1.2)札幌~成田~パリ [1992春エジプトの旅]

3/9 札幌→成田  3/10成田12:50→パリ17:35

 長女はあまり海外に興味を持たず、誘っても乗ってきませんでしたから、次女とふたりで出かけることが多かったのです。この年は4月から大学3年になります。本格的に就職活動に入る前に、「どこか連れて行ってやりなさい」という夫の鶴の一声?に便乗。長女に行きたいところを選ばせました。それが思いがけずエジプトだったのです。本人は古代エジプトに興味があったわけでもなさそうですが、そこは親子の血?単純です。エキゾチックな国に行ってみたかっただけ~とのこと。早速昨年利用したW航空サービスのパンフレットを検討し、3月の春休みに行くことになりました。カイロからバスでナイル川に沿って南下しアスワンまで。そして飛行機でカイロに戻るコースでした。

↓MAP

 

 ガイドブックや参考本などを読むうちにエジプトの歴史や美術に興味がわいてきました。そのうえエジプトの帰途はツアーから離れ、母娘でパリに5延泊の美術館三昧をすることになり、旅への期待は高まるばかり。

 札幌からは成田とパリ経由でカイロに飛びました。成田で前泊(成田ビューホテル)して空港でツアーのお仲間と顔合わせ。娘にはW社はシニアのお客さんが多いから覚悟してと、言い含めていたのですが、嬉しい誤算でした。大学の卒業旅行の男性二人に娘と同じ年の大学生のお嬢さんひとり。しかも!皆さん札幌出身または在住の方たちでした。娘は初の海外旅行ですから、成田のホテルで胃が痛いなどと不安そうでしたが、若い方たちが旅仲間とあって急に元気になりました(笑)。

 昨年と違って、モスクワにも寄港せず、夕方にはパリに到着。この1年で海外の旅は一段と便利になっていました。エッフェル塔の近くのフランツール・スフランホテルに1泊しました。機内食もまだましな頃でしたから、食べすぎてお腹も減らず、外出もしないで早めに就寝しました。

 


タグ:パリ
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1992春の旅(3)パリ~カイロ [1992春エジプトの旅]

3/11 パリ1620→カイロ2150AF

カイロ/ヒルトンホテル1泊

3月のパリはまだ寒いものの、雪がまだまだ残る札幌からやってきた身には、春用のコートだけで済むのがうれしかったです。これが初めてのパリでした。ホテルを出ると目の前にエッフェル塔が立っていて、それだけで感激()

↓ ホテルの前で

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 パリ市内観光にでかけましたが、今回はエジプトへの旅の予習というわけで、まずはコンコルド広場のオベリスクを↓説明(ほとんど忘れましたので、Wikipediaより)を聞きながら見学。

<ルクソールから運ばれた別名クレオパトラの針と呼ばれるオベリスクは広場の中央に立てられており、ラムセス2世の治世を褒め称えるヒエログリフが刻まれている。元々はルクソール神殿の入口に対で立っていた(残る1本はまだそのまま立っている)。この場所は1793年にルイ16世とマリー・アントワネットがギロチンで処刑された場所である。1833年当時の技術レベルでは輸送は困難を極めた。台座には輸送の際にどのような機械を使ったかを説明する図がある。赤い花崗岩でできており、台座を含めて高さは23メートル、重さは250トン以上である。先端部分は紀元前6世紀ごろ盗まれたとされており、1998年にフランス政府が金箔を施したキャップを先端に追加した。オベリスクを立てた際にそれを挟むように2つの噴水も建設された>

 続いてルーヴル美術館へ。☆ルーヴル美術館(初)

↓ガラスのピラミッドの前で。左に見えるリシュリー翼は工事中でした。

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ルーブルのエジプトセクションでは小さめのスフインクスや書記の像などを見学。ほかはエジプトセクションへの通り道だったミロのビーナスやサモトラのニケなど。このニケ像のある大階段室にはイタリア絵画のコーナーへの案内板があり、そちらも気になりましたが、エジプトの帰りに寄れるのだからと自分に言い聞かせつつ・・・。

この後、エジプトとは関係ありませんがノートルダム寺院にも行きました。広場の花壇がフランス風庭園で、菫が咲いていて、内部もバラ窓も豪華で美しかったです。午前中だけでこれだけのスケジュールをこなすのですから、さすがにツアーは効率が良いです。

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ランチをルーブル近くのレストランで。店先に牡蠣など並べた大きな店でした。初めて殻つきのエスカルゴをいただきました。映画の「プリティ・ウーマン」

のシーンを思い出して、殻を飛ばさないように気を付けて、バジルとにんにく

の風味が効いていて、とても美味しかったです。

 夕方の便でカイロに飛びました。途中アルプス山脈を越えたとき、丁度日没でしたので、雪山がサーモンピンクに染まって、それは綺麗でした。TVアニメ「アルプスの少女ハイジ」で育った娘はいたく感激()

 カイロ空港に到着。ターミナル内は旅行客ばかりではない雑多な人々でごった返していました。がっちり、バックを抱えながら両替。でてきたお札の汚さにびっくり。ツアーバスへ。ホテルに着いた頃はすでに真夜中でしたが、子供を含め外でボール遊びやたむろする男性たちの姿。。。ラマダンの季節だったのです。コーランをスピーカーで流しているので余計に騒々しい。この後も毎夜、この騒音に悩まされることになりました。

ホテルの部屋は広くてパリの5倍はありそうでした。

 


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