SSブログ

1994春の旅(16&17,18)パリと帰国 [1994春ヨーロッパ初めての一人旅]

5/22(日)

 午前中はギュスターヴ・モロー美術館、午後からはピカソ美術館を訪れました。

パリにあるモロー美術館はピカソ美術館とならんで、国立の個人美術館として圧倒的な人気を誇っています。
地元の人にはトリニテといえば聖堂なのだそうです。地下鉄トリ二テ駅を降りて地上にでると、威風堂々の大きな聖トリニテ教会が聳えています。この周辺は下町風なエリアですが、美術館のある通りは閑静です。地図をたよりに徒歩数分、フランス国旗が翻ってないと見落としそうななにげない建物はモローが住んでいた家です。

☆モロー美術館(初)

 Gustave Mororeauモローは19世紀末のフランスの画家。神話や宗教的主題による内面的な感情や心理のひだを、蠱惑的な陰影のある鮮やかな色彩で描写。象徴主義の先駆者とみられています。エコール・デ・ボザールの教授となり門下からマティス、ルオー、マルケらを輩出。生涯独身で、没後はパリの邸宅と作品は国家に寄贈され、モロー美術館になっています。

モロー3.jpeg

階段を上がってすぐの2階の画家の居間を見学できました。暖炉のある古風な空間(10畳くらい)には浮世絵やレンブラントの版画などが生前のままに飾られていて、仕切りの奥には書斎がありました。

展示室はその上階の板張りの大きなホール。壁一面に飾られた油絵や水彩画の大作に圧倒されました。ホールにはいかにも画室らしい螺旋階段があり、それを上り下りしながら展示室を見渡す気分は最高でした。水彩画はキャビネットのパネルに所蔵されていて、熱心に一枚づつ鑑賞している方もいましたが、私は一枚の絵の前で足が止まりました。それは

↓「トロイアの門に佇むヘレネ」72×100

 他の細かく描き込まれた作品とは随分異なっていて、未完成にも見えます。ヘレネの顔ははっきり描かれていませんし、スケッチ風な筆の運びも描きなぐったように荒い。しかし、じーっと観ているとファム・ファタルの元祖のようなヘレネ、自分の軽率な恋愛のために起きた戦いのその戦塵の燻るなかに、平然と佇んでいるようにも見えます。荒い筆の運びはそのような魔性の「女」に向けた怒りと、血塗られたおびただしい犠牲をも如実に表現。鳥肌のたつ思いでした。トロイアのヘレンを題材にした作品は他にも何点かあるようです。

モロー1.jpeg

 またサロメはモローの最も代表的なモチーフで、ファム・ファタルの典型。そのうちの一枚はサロメの前にヨハネの首が出現する珍しい図像。↓モロー「出現」142×103

モロー2.jpeg

 続いて訪れたピカソ美術館(3区)はマレ地区(4区)に隣接しています。この近辺は庶民的なユダヤ人街と瀟洒な館が立ち並ぶというバラエティのある地区です。いくつかの館はコニャック・ジェ美術館やカルナヴァレ美術館などに開放されていますので、今やパリの重要な観光地になっています。初めてここを訪れたのは、ピカソ美術館が目的でしたが、そのとき以来、お気に入りのエリアになりました。

☆ピカソ美術館(初)

 ピカソ美術館は旧い館を国が買い上げ、美術館に改修してオープンしたものです。相続税のかわりに物納されたピカソの傑作が、これでもかというほどの規模で展示されています。
青の時代から始まるコレクションは画家の女性遍歴の説明パネルと共に、画歴の推移が手にとるように分かる仕掛けになっています。親切というかゴシップ好きというか・・・まあ、ピカソを理解するにはうってつけといったところです。

絵葉書↓の淋しげな女性はピカソの妻オルガです。「肘掛け椅子のオルガ・ピカソ」(1917)130×88

ピカソ3.jpeg

 ロシアの将軍の娘でバレリーナだった美しい彼女と知り合い恋に落ちたピカソは、古典的な手法で女性美をを描写。キュビズムから新古典主義の時代に移行した記念の作品。この絵画はオルガと結婚してまもなくのころ。この頃から画商がつき大きな家に住み、社交界との華やかな私生活が始まりました。しかしその穏やかな家庭生活も10年もしないうちに崩れていきます。ピカソが出逢った17歳のマリー・テレーズとの恋愛が始まったのです。
このあたりの新古典主義の「アルルカンに扮するパウロ」「手紙を読むふたり」は穏やかな画風。それに続くシュルレアリスムの「抱擁」「アクロバット」、なかでも「海辺の人物たち」は激しくグロテスクなほど官能的です。恋多き画家ピカソを取り巻く女性たち。そのなかで、 一時期ピカソのミューズだったドラ・マールが彼を取り巻く女性達との軋轢に、次第に精神に異常をきたしていきます。その彼女の哀しみさえも、カンヴァスに描くに至っては「画家の業」としか言えません。「座るドラ・マール」この絵を前にドラ・マールに深く同情してしまった私でした。

↓ ピカソ美術館(サレ館/17世紀の建築)絵葉書

ピカソ2.jpeg

ピカソ1.jpeg

 ピカソが生前「ピカソ最大のコレクターは自分だろう」と言っていたという作品群を次々に鑑賞しながら、今回の旅の終わりにふさわしい美術館に来られて幸せ、とても満ち足りた気持ちになりました。

 遅くなったランチはピカソ美術館近くのカジュアルなビストロで。まだ一人旅に慣れていませんでしたから、なんかおどおどしてました。が、近くにご近所の常連らしいマダムがきちんとした服装で一人で食事しているのを見て、勇気がわきました。黒板に書かれた本日の定食(牛ヒレ肉、ポテト添え、チョコムース、コーヒー)を美味しくいただき、気分だけはパリのマダム。

 3時ごろホテルに戻り、夕方までスーツケースの整理をして過ごし、夜は先日のジベルニー・ツアーと同じ日本語のムーラン・ルージュのショーに参加。凱旋門近くのレストランで夕食のあとモンパルナスへ。ムーラン・ルージュは超満員。日本人のツアーは私たちだけではなく、かなり日本人率が高かったです。私はロートレックの描いた場所で雰囲気を味わいたかったのですが・・・時代が違いますから(笑)静岡から参加されていたご夫婦と話が弾み、パリ最後の華やかな夜を楽しみました。ホテルに帰りましたが、すでに午前様でした。

5/23(月)パリCDG11:25→ロンドンLHR11:30(ミッドランド航空)/13:00→

 パリのCDG 1のターミナルで大島渚監督夫妻を見かけました。ロンドン在住の息子さんとお孫さんに見送られて、おじいちゃん、おばあちゃんの平凡なお姿で楽しげでした。日本まで同じヴァージン・アトランティックだったみたいです。

5/24(火)成田8:00(ヴァージンアトランティック航空)....羽田10:45→千歳12:00

 札幌の我が家には13:00ごろ帰宅。夫が塩鮭と納豆ご飯を用意して出迎えてくれて、感激でした。共働きの時はお茶も入れないほど、家事には非協力な人でしたが、少しずつ家事も覚えてというか覚えさせて(笑)、社会人一年生の長女となんとか18日間のお留守番をしてくれました。ありがとう~!!

 こうして、初めての一人旅は無事に終わりました。チッキの件がこの旅での最大のトラブルでしたが、何とか切り抜けられたのも大きな自信につながったことは確かです。

地図を眺めながら列車で移動するヨーロッパの旅、画家たちの住んだ町や村での美術行脚の魅力にすっかりはまってしまいました。次回はいつになるでしょうと夢は膨らむばかりでしたが、この年末は東北に住む次姉が重病で一時危篤になり、長姉と交代で看病のため行ったり来たりでした。ようやく恢復し、新しい年1995年を迎えたのですが、今度は隣家に住む夫の父の具合が悪くなり、入院。夫と二人で半日ずつ交代で病院に付き添いましたが、すい臓がんのため1か月半後に亡くなりました。1995年はご存知のように社会的にも大きな災害(神戸大震災)やサリン事件などがあり、日本は騒然としていました。次の旅は義父の初盆を過ぎてからの9月になりました。(終)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。